2024/10/10 02:12

地方の時代が到来 多民族国家日本

FROM EDITOR
日本人のルーツを探れー人類の設計図

聖徳太子は「日本人」ではない

日本国の伝統

地方の時代が到来
ひとつの日本からいくつもの日本へ

 

      ミトコンドリアDNA

 NHKスペシャル、「驚異の小宇宙・人体」が放映されたのは、1989年だった。コンピューターグラフィックを用いた映像のすばらしさに感動した。1992年、NHKスペシャルは「脳と心」を放映した。
当時、学問の先端部分として、「脳」が注目されていた時代だ。そして、1999年「遺伝子・DNA」のシリーズを放映した。世の中に「バイオ」という言葉があふれ出し、バイオビジネスが脚光を浴びだした時代だ。その「遺伝子・DNA」全6回シリーズの3回目、「日本人のルーツを探れー人類の設計図」は、衝撃的な内容だった。

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 「遺伝子・DNA 3-日本人のルーツを探れー人類の設計図」(NHK出版)の解説書によれば、日本列島に存在した縄文人と弥生人の関係について、大別すると3つの説があったという。「混血説」「置換説」「移行あるいは転換説」である(P88)。
 縄文人と弥生人が混じり合ったというのが「混血説」。大量の弥生人渡来により縄文人は駆逐され、「日本人」というものが縄文人から弥生人に「交代した」とするのが「置換説」。さらに弥生人は後からやってきて稲作などの技術や文化は伝えたが、数としては日本列島における少数で、遺伝的にはほとんど影響を残さず、長い間に縄文人が小進化して現在の日本人になったとするのが「置換あるいは転換説」だ。
 
 細胞の中にミトコンドリアという細胞小器官がある。これはもともと呼吸に関係し、酸素を用いてエネルギー(ATP)をつくる器官だ。このミトコンドリアは、その中に独自のDNAをもっている。核のDNAが、父方から半分、母方から半分を受け継いでいるのに対して、ミトコンドリアDNAは、母方のものが子供に受け継がれる。このミトコンドリアDNA中の塩基配列(A,T,G,Cの並び方)を比較することによって、それぞれの人々の近縁関係を類推することが出来る。
 国立総合研究大学院大学の宝来博士はミトコンドリアDNAを用いて、日本人のルーツを研究した。宝来博士の結論は次のようだ。
 「縄文時代に日本列島を担った『縄文人』には、アイヌの人々の祖先と沖縄の人々の祖先、少なくとも2つの集団があった。また、アイヌと沖縄の人々の祖先集団とは別の、おそらく日本列島中部に暮らす別の縄文人集団を想定することができ、それぞれの集団どうしで交流があった」。すなわち「縄文人は多様な集団から構成されていた」(P86)。
 さらにミトコンドリアDNAの分析で、東アジアの集団に大きく5つの遺伝集団が区別できる。「本州の日本人」「アイヌ人」「沖縄の人」「韓国人」「中国人」である。宝来博士はこの5つの遺伝集団が、実際の「国」の集団の中でどのような比率で存在しているかを調べた。その結果は、かなり衝撃的だ。
 本州の日本人集団では、「日本人固有のDNAタイプ」をもつ割合は、わずか4.8%にすぎない。一方「韓国人タイプ」と「中国人タイプ」をあわせた割合は約50%に達した。「アイヌ人タイプ」と「沖縄の人タイプ」をたした割合は約25%になる。
 

 

 
 
 宝来博士は述べる。「本州の日本人集団が、遺伝的にあまり特徴がなく、むしろ大陸中国や韓国の人々の持つ特徴が非常に多く含まれること、つまり多様な大陸系の集団から成り立つことが判明し、決して遺伝的に均一な集団ではないことが改めて確認されたわけです」(P88)。
 このように現代の日本人は決して単一な集団ではなく、中国大陸や朝鮮半島の人々と深いつながりをもっていた。さらにひとつとこれまで思われてきた縄文人や弥生人も多様な集団であったことが、判明してきた。
      
     聖徳太子は「日本人」ではない  
 1996年、NHK人間大学のテキスト「日本史再考」を読んだ時「ああ、そうだったのか」という感慨をもった。この本の副題は「新しい歴史像の可能性」で、著者は網野善彦氏だ。
 「日本史再考」の第2回「『日本』とは何か」では、「聖徳太子は『日本人』ではない」とある。
 「702年に遣唐使が唐の皇帝の質問に答え、『自分は日本の使いである』といったのが、対外的に日本という国号が使われた最初です。当然、それ以前に日本列島の内部ではこの国号は決められていたはずで、・・・7世紀後半より前には遡りません」。
 「日本という国の名前が決まった時点こそが、日本国誕生の出発点であり、それ以前にはこの地球上に日本は存在しなかったし、日本人もいなかったという事実です」。
「したがって『聖徳太子』とのちによばれた人も『日本人』ではない、・・・この人の派遣した遣唐使は『倭王の使い』といっており、『日本の使い』とはけっしていってはいません。・・・『倭人』はおそらく主として日本列島の西部にいる人びとで、いまの関東にいた人びとのことも倭人とよんでいたかどうか疑問です」(P18、19)。
 言われてみれば、極めて明快だ。2000年前には「日本国」は存在しなかったので、この列島に住む住人は「日本人」とは言えない。
 
 さらに次の指摘は、大変重要だ。「天皇の称号も同様であり、王のなかの有力な王としての『大王』(おおきみ)という称号を『天皇』に変えたのは、日本国という国号を定めたのと同じ浄御原令(689年)だといわれています。いまでも教科書のなかに『雄略天皇』などという表現が出てきますが、この人の生きた5世紀には『天皇』という称号はなかったのですから、・・・これは誤りです。正確にいうのであれば、『のちに雄略とよばれた大王』と表現するべきではないかと思います」(P21)。
 当時この列島には多くの小国があり、それぞれ「王」を抱いていた。その中で「権力」を握り拡大していった「王」のひとりが後の天皇につながっていった。これも、言われてみれば、自然に理解できる。
 
 第3回の「日本国の支配領域」では、「7世紀から8世紀にかけての日本国の支配下にある地域のなかには、北海道と沖縄はもちろん入っていませんでしたし、本州、四国、九州のなかでも、現在の東北、新潟県の北部、九州南部は日本国の支配領域のなかには入っていなかったのです。日本国は8世紀から9世紀にかけてこれらの地域を侵略し、征服しました。・・・当時の日本国の支配者は、東北の人々を蝦夷(えみし)、南九州人を隼人(はやと)とよび、異種族と考えていました」。(映画「もののけ姫」にも蝦夷が出てきたなあ)
 「東北の最北部、岩手県の北部から青森県の下北・津軽の地域は、11世紀の後半ごろまでは日本国の支配に入っていません」(P26)。
 「明治に入って日本国は、北海道、千島を領土としてアイヌを支配下に入れ、初めて現在の日本国の領土、日本列島全体がその支配下に入ったことになるのです
」(P35)。
 つまり7世紀後半に「日本国」を作った勢力が、日本列島を北へ、東へ、西へ、南へと征服地域を広げていって、とうとう今から150年前にやっと日本列島全体を支配することとなったわけだ。
 これらの指摘を初めて読んだとき、私が高校までに習ってきた「日本歴史」のイメージと随分違うと感じた。私が教えられたものは、はるか昔から「日本」という国が存在し、日本列島全体に日本国の支配が最初からすみずみまで行き渡り、昔から天皇が存在し、民族の交流もあまりないという天皇中心の「皇国史観」「単一民族史観」「単一国家史観」だった。
 
      日本国の伝統

 東北学を提唱する赤坂憲雄は「東西/南北考」(岩波新書)で、簡潔にこう指摘する。
 「国家としての『日本』が『天皇』と対になって登場したのは、古代7世紀の末であった。そこに成立したヤマト王朝は、みずからの国家的アイデンティティを賭けて、北の蝦夷と南の琉球にたいする征服支配の欲望を表明した。眼前にはあきらかに『いくつもの日本』があった。弧状をなす列島の、南/北のはるかな彼方には、マツロワヌ異族の土地=異域が茫然と広がっていたのである。ヤマト王権の誕生以来の千数百年の歴史は、それら異族と異域を征討し、『ひとつの日本』の版図の内に治めるために費やされた時間でもあった。むろんこの『ひとつの日本』への欲望が成就されるのは、明治以降の近代化、国民国家としての日本が生成を遂げてゆくプロセスにおいてである」(P54)。
 こうみてくると、「日本国」の「伝統」は「征服と侵略」といえるだろう。明治維新後「富国強兵」がなった後、朝鮮半島や中国大陸への侵略は、「日本国」の伝統にとって、決してまれなことではなかったことがわかる。
 
 「産声をあげたばかりの東北学はこうして、いくつもの東北をめざす。・・・東北はむしろ、多元的な種族=文化が交わる、南/北の地平へと豊かに開かれたカオスの土地である。この弧状なる列島の民族史的景観そのものを根底から変容させてゆく。それはさらに『日本』という国家の版図を踏み越えて、眼差しをアジアへと広げてゆかねばならない必然を孕んでいる。・・・いくつもの東北から、いくつもの日本へ、そして、いくつものアジアへ」(P189)。
 
     独自な個性 

 講談社が「日本の歴史」シリーズを2000年10月から刊行している。その第1回配本が、網野善彦の「日本の歴史00 『日本』とは何か」だ。これは、先に述べた1996年のNHKの「日本史再考」を、より詳しく展開したものとなっている。うれしいことに、売れ行きはなかなかいいようだ。 
 この本の中で、網野は再度つぎのような見方を虚像と指摘している。「日本は周囲から海で隔てられ、孤立した『島国』であり、・・・日本人は均質・単一な民族となったので、他民族からはたやすく理解され難い独自な文化を育てる反面、・・・・閉鎖性を身につけることになったという”常識”」。
 この常識に対して、網野は次の地図を示す。これは、「環日本海文化」に早くから注目した富山県が作成したものだという。
 この地図からうける印象は、私たちが普通慣れ親しんでいる地図から受けるものとは随分異なる。
 
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この地図を見ると、5万年前から1万2千年前までの最後の氷河期に、海水面が現在より100m前後下がったため、日本列島周辺の海が陸地になり、北海道や本州、四国、九州は一つにつながっていたことが実感できる。九州と朝鮮半島は本当に大陸とわずかな海に隔てられていたのみであり、結氷すればサハリンと大陸とは歩いてわたれる事が、理解できる。
 また、現在「日本海」と呼ばれている「海」はむしろ大きな湖のような「内海」と呼ぶ方が正確であり、弧状の日本列島や南西諸島は、海を通じて大陸や遙か南の島々と結びついていた事が理解される。
 
 網野は指摘する。「海を通じての東西南北の諸地域との、長年にわたる人とモノの活発な交流を通じて、列島の諸地域にはそれぞれ独自な個性が形成されてきた。とくに列島の東部と西部、フォッサ・マグナの東と西では、社会の質が異なっていると考えられるほどの差異がある。『日本の社会が均質である』などというのも、まったく根拠のない思いこみといわなくてはならないのである」(P25、26)。
 
 網野や赤坂の文を読んでみて、自分の中に「中央集権的な国家観」が、根強く存在していることに気づく。今まで地方の独自の力や自律性をあまり考えてこなかった。しかし、ここ百年あまりで刷り込まれた「単一民族神話」と決別し、事実に基づいた「日本国」の成り立ちを理解することで、21世紀、地方の時代を本当に豊かなものとして築き上げられることができる気になっている。