2019/04/19 21:15

中国人の反日感情の源泉―中国人が学んだ「抗日戦争史」

編集者より

 

中国人の反日感情の源泉―中国人が学んだ「抗日戦争史」

 

 

中国人の反日感情の源泉―中国人が学んだ「抗日戦争史」

 

  8月15日、日本は66回目の終戦の日を迎えました。私は10年の中国生活で何千人もの中国の若者と出会うことができました。そして10年ぶりに日本に帰ってみて……過去の戦争責任に対する思いについては、日本人と中国人ではその温度差に乖離があるのですが、それが「益々大きくなっている」というふうに感じました。

 

  以前、楽天広場ブログ上で、私は中国の歴史教科書の日本語訳を掲載しました(現在、当ブログは閉鎖)が、今回、日本の多くの方に「中国人が学ぶ“抗日戦争史”」を理解していただこうと思い、ここに再度掲載させていただくことにしました。

 

  ここでご紹介する全文は人民教育出版社の『中国歴史』(全四冊、中学歴史教科書)の第5章の日本語訳です。

 

  これをご覧になって、中国に敵対心や警戒心を抱くのではなく、中国人に何故あそこまで“反日感情”が根付いているのかを考えていただき、中国ビジネスにおいても役立てていただければと思っています。

 

  なお、私が翻訳した教科書は95年出版のものなので、現在の30代で社会でバリバリ働いている中国の方達がどのような歴史教育をされてきたかがご理解いただけると思います。

 

1.つくられた“九一八事変”

  1929年、資本主義世界が深刻な経済危機に瀕していた時、日本帝国主義はこの経済危機を脱するために中国侵略への歩調を強めていった。東北に進駐していた日本関東軍は1931年9月18日夜、南満州鉄道の柳条湖付近の線路を爆破し、これを中国軍のしわざとした。そして彼等はこれを理由に、東北(日本のいう満州)における軍根拠地であった瀋陽を占領したのである。この一連の事件を”九・一八”事変という。

 

  東北防衛軍司令の張学良は蒋介石の命令を受けて、部隊に抵抗をさせなかった。そして東北軍10万人余りは関内(山海関以南、以西)に撤退し、日本軍は無人の境に入るが如く侵入した。

 

  半年も経たないうちに、東北三省100万平方キロメートルの美しき大地は全て敵の手に渡ってしまった。東北3000万人の同胞は日本軍の監視のもと、屈辱的な圧力を受けた。

 

  東北陥落後、東北人民は郷を離れ、流浪の旅に出た。当時流行した『松花江上』という歌は彼等に故郷を思い起こさせた。

 

  ”我の家は東北松花江の上、そこには森林や炭鉱や一面に広がる大豆やコーリャンがある。我の家は東北松花江の上、そこには我が同胞がいる。そして老いた老人達がいる。九一八、九一八、ここから悲惨な日々が始まった。離れた我が郷には無尽の宝を放棄してきた。流浪!流浪!一日中、関内をさまよい続ける。我が愛しい故郷は何時奪回できるのだろうか?何年何月に奪回できるんだ?我が無尽の宝は何時奪回できるのだろうか?爺や、婆や!いつ、あなた達と一緒に暮らせるのだろうか?”

 

2.“一二八事変”勃発

  侵略拡大のため、1932年1月28日深夜、日本軍は上海へ突如侵攻を始めた。上海を防衛していた十九路軍は、愛国戦士の蔡廷カイ、蒋光ダイの指揮の 下、蒋介石の不抵抗命令を無視して抗戦した。これを”一・二八”事変(日本のいう第一次上海事変)という。彼等は日本軍の進攻を何度か退け、日本軍の作戦リーダーを三度も交代させた。

 

  しかし、国民政府の妨害は、十九路軍の抗戦活動を破壊し、援軍の派遣も拒み、戦火は広がり続けた。とうとう弾が尽きた十九路軍は撤退を余儀なくされた。同年、国民政府と日本は屈辱的な≪淞滬停戦協定≫を結ばされ、中国軍の上海からの撤退と日本軍の上海への駐留を認めさせられた。中国人民の主権はここに再び売り出されてしまったのである。

 

3.“偽”満州国傀儡政権の樹立

  1932年、日本は既に退位していた清朝末代の皇帝溥儀を担ぎ上げ、長春に”偽”満州国傀儡政権を樹立し、東北を中国から分割しようとした。東北三省は日本帝国主義の植民地として陥落し、東北人民は屈辱的な亡国奴隷の生活を強いられた。

 

  1931年9月22日、関東軍参謀部は≪満蒙問題解決法案≫を制定し、”宣統帝(溥儀)を以って元首とし、東北四省と蒙古を含む領土に我が国を支持する新政権を築き、満蒙各民族の王道楽土とする”、”国防と外交について、新政権は日本帝国にその掌握を委ね、交通・通信など主要部分の管理は日本が行う”とうたった。

 

  それと併行して、関東軍は溥儀を天津から秘密裏に旅順へと移送し、1932年1月、関東軍代理司令板垣征四郎は旅順へ溥儀を訪ねた。溥儀は”新国家”の元首となることに同意し、王政復古と皇帝の称号の存続を要求した。2月、板垣は再度、溥儀と面会し、溥儀を満州国”執政”として迎えることを伝えたが、溥儀は王政復古に固執した。板垣は溥儀が関東軍に服従しない態度を見せたことに対して、威嚇しながら「軍部の要求は変更できない。もし、受け入れられないのであれば、敵対する態度として見做し、敵に対する方法でお応えする以外にない」と言った。溥儀はそれを聞いて、恐怖のあまりに何も言い出せなくなったが、最後には仕方なく「一年の暫定期間、執政を行い、もし帝位が復活できなければ、即時執政も退く」と答えた。板垣はそれに同意し、3月9日、溥儀は”偽”満州国執政に就任したのである。

 

4.“塘沽協定”締結

  1933年初め、日本は熱河省を侵攻し、国民政府軍隊はまたもや戦わずして撤退した。日本軍は熱河を占領した後、勢いに乗じて関内に(山海関を越えて)攻め込んだ。そして河北省東部を占領し、北平(現在の北京)や天津をも脅かした。国民政府は妥協と投降を繰り返し、日本と売国条約ともいえる≪塘沽協定≫を結んだ。これにより、河北東部を非武装地区として線引きし、国民政府軍隊はここからの撤退を認めたのである。ここから、日本の華北侵略の道が開かれたのである。

 

5.全国抗日求亡運動の隆起

  “九・一八”事変後、全国の人民は蒋介石の不抵抗政策に反旗を翻し、政府に内戦の停戦と日本の侵略に対する抵抗を要求した。こうして抗日救亡運動は急速に高まっていった。

 

  東北人民とまだ撤退していなかった東北部隊は自然に抗日義勇軍を組織し、日本軍の侵略に抵抗した。その中の有名な一つに愛国領袖の馬占山が率いる部隊があった。中国共産党から派遣された楊靖宇と趙一曼などは東北のゲリラ隊に参加し、抗日ゲリラ戦を展開した。

 

  各地の労働者は抗日救亡運動に次々と参加し、瀋陽の兵器工場では日本軍のために生産活動を行うことを労働者達が拒絶した。上海の埠頭では日本製品の運送を拒絶する労働者もいた。また、各地の学生は南京に集結を募り、政府へ抗日出兵を要求した。

 

  1931年12月、北平(今の北京)、天津、武漢、広州、上海などの学生3万人以上が南京連合ツアーを組み、政府に抗日出兵を要求した。国民政府は軍を派してこれを鎮圧し、学生グループは珍珠橋に到着した時、軍警に銃口を向けられ、30人以上が撃ち殺され、100人以上が負傷し、100人以上が逮捕された。これを”珍珠橋惨案”とよぶ。惨案の発生後、全国人民は次々と政府の学生運動鎮圧に抗議し、不抵抗政策に反対した。

 

  “一・二八”事変後、各界の人民は十九路軍の抗戦を熱烈に支援し、宋慶齢、何香凝らは自ら前線を慰問し、労働者や学生を支えた。また、全国各地の人民は次々と義捐活動を行い、前線を支援した。

 

  宋慶齢、何香凝は前線に行って十九路軍戦士を慰問した。彼女達は戦士が凍えるような寒さの中を一着の服のみで抗日活動を行っていることに感動し、戻ってから綿ジャケットの寄付活動を行い、五日内に多くの人が3万もの真新しい綿ジャケット上下を作り上げ、前線に送り、官兵の心を温めた。また、何香凝は家の 門に「この度は熱き支援を頂戴致しました」と貼り紙をし、これを見た上海人民は引き続きお金や物を寄付した。この後で、何香凝は自ら部隊に前線へ奔走し、車一杯の慰労品と救援物資を前線の戦士へ届け、戦士は元気付けられた。

 

  宋慶齢は傷付いた兵士の治療が困難なのを見て、何香凝等とともに資金を投じて上海交通大学の部屋にて”国民傷兵医院”を開き、宋慶齢も度々医院に傷付いた兵士を見舞いに行った。

 

6.察哈爾民衆の抗日同盟軍

  日本帝国主義は一歩一歩侵略をすすめ、国民政府は引き続きそれに妥協し撤退を繰り返していた。国民党内では愛国将軍の馮玉祥などの不満が起こった。1933年、馮玉祥は共産党員の吉鴻昌などと察哈爾(今の内蒙古の一部)民衆抗日同盟軍を組織した。彼等は抗戦に立ち上がり、多倫(察哈爾省の重要地)など失った土地を奪回し、日本軍を察哈爾省から追い出した。蒋介石は同盟軍の抗日活動を破壊せんとし、日本傀儡軍と国民党軍の攻撃に挟まれ、弾も尽きた同盟軍は敗戦を認めるに至った。

 

  馮玉祥(1882~1948年)、安徽省巣県人、元直隷派北洋軍閥。1924年に北京で政変を起こし、部隊を国民軍と改称。“九一八”事変後は蒋介石の不抵抗政策に反対し、内戦停戦を主張、共産党と協力し抗日にあたった。1933年、抗日同盟軍の失敗後、馮玉祥は張家口を離れ、軍を除隊し、熱心に本を読み、救国救民の道理を模索した。

 

  吉鴻昌(1895~1934年)、河南省扶溝人、国民軍軍長を務め、寧夏省主席となる。1931年、彼は赤軍への攻撃に反対したことから蒋介石に強制的に出国を命じられ、翌年、中国へ復帰、間もなく中国共産党へ入党した。抗日同盟軍が失敗すると、吉鴻昌は天津へ渡り、1934年に国民党に逮捕された。刑務所へ入れられるまでの路上で、彼は立ち止まり小枝を使って地面に「私は抗日のために死にたい。正々堂々と死にたい。背後から(刑のために)銃で撃たれることがあってはならない。私は敵の弾丸で自分がどのように死んでいくのかを自身の眼で見たいのだ!」と記した。そして吉鴻昌は声高に「抗日万歳!中国共産 党万歳!」と叫び勇気を示したのである。

 

  参考文献:九年義務教育三年生初級中学教科書『中国歴史』第四冊 人民教育出版社歴史室 編著訳 雄山閣出版 1996年 第5課 日本による中国侵略“九・一八”事変(原教科書32~40ページ)

 

 

7.盧溝橋事件

  1937年7月7日夜、日本侵略軍は北平(現北京)の南西にある盧溝橋を進攻し、長い間たくらんでいた全面的侵略戦争を開始し、また中国軍が抵抗したことによって全国的な抗日戦争となった。”盧溝橋事変”はまたの名を”七七”事変ともいう。

 

  盧溝橋は北平の南西、宛平県城のそばにあり、平漢鉄道の要所であった。事変が勃発前、北平は三方を日偽軍(日満軍)に統制されており、盧溝橋のみが北平から南方のその他の地域へ抜ける道であった。この理由によって軍事上において争いを免れぬ地となったのである。7日夜、日本軍が盧溝橋北から盧溝橋を目指し軍事演習を行っていた。日本軍は一兵士の失踪を理由に無理矢理に宛平県城の調査をさせることを要求したが、中国軍はそれを拒絶、日本軍が宛平県城に向かって発砲することとなったのだ。

 

  戦争の幕が開かれた後、中国護衛隊第29軍司令部は盧溝橋の堅守を命じたが、戦士達はすでに胸中の怒りを抑えきれず、敵を撃ち殺さんと城を出ていたが、侵略軍の撃滅はままならなかった。鉄道橋に二列の中国兵が並んで数百名の日本軍と対峙し、少しも畏れることなく敵と激戦を展開した結果、ほとんど全ての兵士が戦死してしまった。兵士達は同士が死んでいくのを見て、感傷的になることなく、歯を食いしばって全速で突進した。悲しいことに、撤退の命令にもかかわらず前進した結果、盧溝橋での両軍の戦闘状態がしばらく続いていた。

 

  その後、日本軍が大軍を組織し、北平・天津方面へ大規模な進攻を開始し7月末には北京・天津が陥落してしまった。

 

  北平防衛の過程の中で、南苑の戦いは激烈を極め、日本軍は飛行機や大砲によって狂ったように集中攻撃を行った。29軍副軍長の冬麟閣は兵を率いて、自ら前線で作戦の指揮をとった。彼は兵士に「戦死者は栄誉れであり、生存者は恥辱である。この栄誉と恥辱は、単なる個人では軽いものかもしれないが、国家民族としては重いものである。国家が危機に瀕している時は軍人として死を以って報いんとするは当然である。」と激励したという。この激戦において冬麟閣は脚を負傷しながらも作戦の指揮をとりつづけ、壮絶な殉死を遂げた。また、この戦闘において29軍師長の趙登禹も勇敢に犠牲となった。彼等の功績を記念して、北平の二本の道路は冬麟閣路・趙登禹路と呼ばれている。

 

8.抗戦への団結

  7月8日、中国共産党は抗日を発表し、全国人民の団結を起こさせ、民族統一戦線の強固なる”長城”を築き、日本侵略者を中国から駆逐せんとした。また、17日、蒋介石は談話によって抗戦準備を表明した。

 

  国共両党の協議にもとづき、中国北西の労働者赤軍を主力とした軍は八路軍に、南方八省の赤軍遊撃隊は新四軍と改編された。9月下旬、国民党は中国共産党との国共合作を宣言し、民族の危機的状況が頂点に達した時に、両党は再度合作をし、正式に抗日民族統一戦線が成立し、全民族による抗戦が開始した。

 

9.戦場と化した国土

  北平・天津侵略後、日本軍は中国に対したちまち全面的進攻をすすめ、北においては華北を進攻する一方で、南方では8月13日には上海へ大挙をしたがえて進攻し、南京にも脅威を与えた。これを”八・一三”事変(日本語の第二次上海事変)とよぶ。日本の作戦は早期決戦という、3ヶ月のうちに中国を滅亡しようとするものであった。国民政府は戦場において幾つもの戦闘をおこない、日本の侵略に抵抗した。

 

   ”八・一三”事変の勃発後、中国護衛軍も攻撃に転じ、中日両軍による激戦が上海とその周辺において3ヶ月続いた。これを”淞滬会戦”という。11月、上海は陥落し、淞滬会戦は終結した。

 

  淞滬会戦にて、国民政府は40万人もの軍を投入し戦闘し、一時は中国軍が日本軍の進攻を後退させたものの、日本軍はすぐに20万人の軍を増強し、性能の高い武器によって猛烈に反撃した。

 

  宝山県城は500名の中国官兵は守っていたが、30隻もの日本軍艦の砲撃と飛行機による爆撃に遭い、城内は火の海と化した。営長である姚子青ひきいる守城勇士は「城を守り、息あるうちは徹底的に奮闘する」と心に決め、二日にわたる激戦で、死んでも退かずという精神で、最後には両軍入り乱れての戦いの末、壮絶な犠牲となった。当時の上海の新聞は「このたび姚営は全滅したが、それは偉大なる壮絶死であり、人々の心を震えさせ、敬いの念を起こさせる。これは中国人の栄光のみならず、全人類の栄光である。そして、この偉大なる功績は永遠、不朽のものとなるであろう」と報道で賞賛をした。

 

  10月下旬、日本軍は上海市内に進攻、これを謝晋元団長率いる800の戦士が四行倉庫を死守し、主力部隊の撤退を援護した。四行倉庫は蘇州河の北岸に位置する七階建ての鉄筋コンクリート建築である。この時、倉庫は西側と北側を日本軍に陣取られ、東側と南側は公共租界であった。戦士達は孤軍奮闘し、日本軍の進攻を何度か退けた。戦闘が熾烈を極めた時、楊恵敏という一人の女学生が生命の危機もかえりみず、公共租界から蘇州河を渡って四行倉庫へ国旗を送った。その国旗は四行倉庫の屋上に掲げられ、戦士達に無限の勇気と力を与えた。そして彼等は四昼夜、戦った後、任務を完了し、公共租界へと撤退した。

 

  盧溝橋事変から、すぐに日本軍は山西省に進入し、太原を手に入れようと企てた。国民政府はこれに対し太原会戦を組織、八路軍が山西の前線として会戦に参加した。9月に横暴な日本軍が平型関に向けて進軍を開始、平型関の東側に潜伏していた八路軍115師団がそれを攻撃した。この攻撃によって、1,000人 を超える日本軍を壊滅させ、多くの軍事物資を手に入れたが、これは”平型関大捷”とよばれる、中国抗戦以来の大捷(大勝利)であった。

 

  平型関は地形が険しく、八路軍はまた豪雨に立ち向かった。真っ暗い夜に道路の両わきの山にひっそりと隠れ、日本軍を射程距離まで引き込んでから、八路軍 戦士が向かっていった。まず、手榴弾で日本軍の後方の車両を破壊し、前方の車両を後退できないようにした。そして日本軍が防備しようがなくなった時に襲撃をおこなった。八路軍は日本軍を5キロメートルの峡谷に包囲し、格闘に持ち込み、一日足らずで決着をつけ、日本軍をのした。

 

  1937年12月、日本軍は南京を陥落。国民政府は重慶へ移り、重慶を戦時の首都と定めた。

 

  翌春、日本軍は山東に二手に分かれて南下、徐州に進攻をした。国民政府は徐州会戦を組織し、第五戦区司令長官の李宋仁が中国軍を指揮し、日本軍の一隊を山東の臨沂で、もう一隊を山東の台児荘で阻止しようとした。両国軍は台児荘では激戦を繰り広げ、結果、日本が大敗を喫した。台児荘において壊滅した日本軍は1万人を数え、国民政府にとって抗戦以来、最大の勝利となった。

 

  台児荘の戦いが激烈を極めていた時、中国軍の陣地には毎日6、7,000もの爆弾が落とされ、その後、日本軍は戦車で庄内を猛突進した。中国軍には戦車も戦車を迎え撃つ大砲もなかったが、血と肉を武器として戦い、敵と格闘まで持ち込んだ。そして、庄内の3分の2が日本軍によって攻略された時、日本のラジオ放送では既に台児荘は全て占領したと報道されたが、中国軍は数百人の決死隊を組織し、夜間において何度も反撃を行い、奇跡的にほとんどの街を奪い返し た。間もなく、中国軍は全面反撃を開始し、日本軍は壊滅した。

 

  中国軍の勇敢なる抗戦によって、日本軍の早期決戦の企てはもろくも崩れ去り、中国を絶滅させるという狂った計画も泡と消えたの。だが、国民政府は抗日戦争中に人民が政府や軍の抗戦に頼るだけで、自らは動かないという状況を恐れていた。この理由によって、太原・徐州など相次いで日本軍の狂ったような反撃の前に阻止することも出来ず、また、1938年10月には、広州・武漢も日本軍に占領された。これで中国は華北・華中・華南の主要領土を全て失ったのであ る。

 

10.南京大虐殺

  日本侵略者は至る所で焼き殺し、略奪、強姦など悪事の限りを尽くした。日本軍は南京占領後、南京人民に対して血なまぐさウい大虐殺をおこない、これ以上にない罪を犯した。南京で平和に生活していた住民は、射撃の練習代とされ、刀剣の試し切りの対象となり、ある者は生き埋めにもされた。戦後の極東軍事裁判による統計では、日本軍は南京占領後の6週間にわたって何も持たない中国住民や、武器を手放した兵士を30万人以上も虐殺したという。

 

  1937年12月15日、既に武器を手放した中国軍人と警官3,000人余りが、南京漢中門外にて日本軍に機関銃で射殺された。その後、まだ死亡していない者も死亡者とともに焼かれてしまった。

 

  16日、中国難民5,000人余りが日本軍によって南京中山埠頭へ集められ、両手を結ばれ、整列させられた後で機関銃射撃され、死体は長江へ捨てられた。その中から、たった二人が生き延びた。

 

  18日には南京幕府山で老人と子供5.7万人が鉛線で結ばれながら、南京下関草鞋峡まで移送され、機関銃で打たれた。その血の海の中でうめき声をあげながら、何とか生きようと必死になっていた者は刀剣で突かれ、最後は日本軍によって全て焼かれてしまった。その中に生存者はいない。

 

  12月、日本の『東京日日新聞』上で「紫金山下」という表題で次のような報道がされた。「日本軍向井少尉と野田少尉は百人切りの試合を開き、野田は105人、向井は106人を切り殺した。だが、どちらが先に100人目を切ったかはわからず、勝負はつかず、再び誰が先に150名切るかで再び賭けが始められた。」

 

※参考文献:九年義務教育三年生初級中学教科書『中国歴史』第四冊(人民教育出版社歴史室 編著訳 雄山閣出版 1996年)第7課 神聖なる抗戦(原教科書48~55ページ)

 

 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0818&f=column_0818_018.shtml

サーチチャイナより