2024/03/19 12:47

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『交響曲第九番』 アジア初演の秘話 軌跡の捕虜収容所

編集者より

 

軌跡の捕虜収容所 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話

 

⇒ Ludwig van BEETHOVEN 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ  
一、      年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ  
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ  
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ  
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ  
ならぬことはならぬものです

これは明治維新となる戊辰戦争で、最後まで徳川幕府藩として薩長連合軍と戦った、白虎隊に象徴される会津藩の『什の掟(じゅうのおきて)』である。
明治新政府の官軍に滅ぼされて苦難の体験をした福島・会津藩士の息子、松江豊寿(まつえ・とよひさ)陸軍大佐は、降伏した者としての屈辱と悲しみの中で憤死した父の遺志を引き継いで、“ならぬことはならぬものです”の正義を、かたくなに守り通したサムライだった。
そのサムライ魂のお陰で、日本とドイツの絆は歴史に残ることになる。


明治維新は1868年。
日本は各藩の武士社会から、国を挙げての富国強兵の西洋式軍隊に変貌し、1904年には世界最強国のロシア帝国を倒してしまうという日露戦争に進む。
コロンブスの大航海時代以来、地球の至るところを植民地化していた白人を、極東の小国、それも有色人種が打ち負かした事実は、トルコ独立など世界的に大きな影響を与えた。
日露戦争前年の1903年にはライト兄弟が有人機の初飛行に成功している。
それから10年後の1914年、第一次世界大戦が始まる。
飛行機も空からの攻撃に加わるほど進化している。
ドイツを中心とするオーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国が、イギリス・フランス・ロシア・イタリア・アメリカ・日本の連合国を敵に戦った戦争である。
ドイツは中国の青島(チンタオ)を植民地化してアジアの根拠地にしていた。
日本は連合国の一員として、敵国であるドイツ基地を攻略するべく、中国へ3万人の軍隊を進めた。
本国からはるか遠い中国で孤軍奮闘のドイツ軍は、77日間であっけなく降伏した。 
森鴎外が1884年、北里柴三郎が1885年、瀧廉太郎が1901年にと、多くの国費留学生がドイツに渡ったように、わが国の明治の文明開化は、ドイツに学び、法律や医学などドイツ文化を真似て追随したものが圧倒的に多かった。
そのわずか数年後に、ドイツを敵にして戦争をしなければならなかったのは、伊藤博文を始め、夏目漱石などの英国留学が示すように、幕末の動乱に暗躍して坂本龍馬に多大な援助をしたグラバーなど、地球上の1/4を植民地化している強国、維新の原動力を提供した大英帝国と日英同盟を結んでいたためだった。

世界の一流国と肩を並べるには連合国の一員にならなければならなかった事情があった。

4715人ものドイツ兵を戦争捕虜としたが、そこからが大問題だった。
捕虜となって辱めを受ける前に「自決」するのが軍人、その日本的な考え方があったため、まさかこれほど大量の捕虜を受け入れることになるとは誰も考えていなかった。
1899年に国際的に締結されていた「ハーグ陸戦条約」の捕虜規定では、「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」と、人道最優先となっていた。
強制労働や虐待は国際相互協定で禁止されていたのだ。
後進国である日本を、白人国の欧米列強に「文明国である」と認めさせるためには、条約を紳士的に遵守して、武士道精神を国際的に展開してみせるしかなかったから、10年前の日露戦争でも世界が驚くほどロシア兵の捕虜を丁重に扱っていた経緯がある。

4462名の捕虜(俘虜・ふりょ)たちは、貨物船で門司港に輸送され、北海道を除く全国12か所の収容所に振り分けられた。
膨大な人数の捕虜は受入れ態勢が不十分なまま、お寺や公民館から、急遽しつらえた粗末な仮設収容所に押し込められた。
仮設の環境は劣悪不潔で食料も乏しく、将校クラスも特別待遇を受けることはなかった。
脱走兵や規律違反の捕虜に制裁を加えるのは各所長の判断であり、身内を戦死させた敵兵への憎悪や体罰も、それなりにあったものと想像される。
やがて、新しい6か所の収容所が準備出来次第、それぞれに分けて各地へ移送された。


阿波踊り、渦潮と言えば、神戸から淡路島、そして四国へ渡る玄関口の鳴門。
鳴門海峡に渦巻く世界最大の渦潮の形から、「鳴門巻」が生まれた
鳴門の撫養(むや)港に最も近いのが、お遍路88か所巡礼の一番札所である高野山真言宗「霊山寺(りょうぜんじ)」。

板東俘虜収容所(ばんどう・ふりょ・しゅうようじょ)は、その霊場の一番札所に隣接した聖武天皇由来の由緒ある、
大麻比古(おおあさひこ)神社近くの、徳島県鳴門市大麻町、坂東郡板東町の陸軍演習場に新しく作られた。
全国でも最大規模の5万7千平方kmの敷地、所内で流通する紙幣や切手も印刷するなど商工業街区も用意された。
ちなみに、野球選手でタレントの板東英二は、ここの板東町出身である。
娘さんの坂東愛子さんは、私のJAL時代の国際線客室乗務員(CA)である。 


新設の板東俘虜収容所、所長には戊辰戦争で敗軍の会津出身ながら、陸軍士官学校を経て陸軍のエリート街道を苦労して進んできた、44歳の松江豊寿が就任した。
彼は官軍による屈辱の中で憤死した武士の父を瞼に浮かべながら、部下たちに訓示した。
「祖国を遠く離れた孤立無援の中で降伏した者の屈辱と悲しみは計り知れない。
絶望の状況で祖国愛に燃えながら最後まで勇戦敢闘した勇士たちである。
彼らの愛国精神と勇気は敵の軍門に下ってもいささかも損壊されることはない。
彼らの名誉を重んじ、武士の情けを根幹とする対応をすべてに心掛けよ。
理不尽に捕虜を犯罪者のように扱うことは固く禁じる!」  

人口500人の小さな坂東の田舎町に、1028人ものドイツ兵捕虜が住み始めた。
それは、1917年(大正6年)4月9日から始まり、1919年6月28日に、ドイツが敗戦降伏して、ドイツ皇帝が亡命し、ベルサイユ宮殿の鏡の間で「ベルサイユ講和条約」が締結されて、その年のクリスマスにドイツ本国へ捕虜送還が始まるまで、2年10か月続いた。


戦争であるから、当然数千人の死傷者が出ている。
日本各地から徴兵されてドイツ軍と戦って戦死した家族を持つ遺族は、その敵兵が捕虜となって我が国にやってくることにどのような感情を抱いたか? 
初めて目にする白人たちに相当な敵愾心と怨念がぶつけられるものと想像に難くない。
ところが、当時の写真や史料を調べて驚いた。
捕虜を乗せた列車が駅に到着すると、鳴門の皆さんは阿波踊りで迎えているではないか!
若い娘たちはタレントに群がるようにハンカチを振りながら駆け寄り、ドイツ兵たちはアコーディオンやハーモニカ、マンドリン演奏と合唱で歓迎に応じている。
まだ大戦さなかの、敵と味方である。信じられない光景だ。

なぜか? 
鳴門は、四国88か所お遍路巡りの、第一番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」の地元。
空海・弘法大師は、すぐお隣の香川県善通寺の生まれ。
全国から訪れる四国一周の「歩き遍路」はここから始まる。
いつも空海さまと一緒に巡礼していますよと言う、「同行二人(どうぎょうににん)」と書き付けた笠をかぶって、1340kmも街道を歩きぬく難行である。
歩きだけで達成できる人は40%と言われる。
その心の拠り所は、行く先々での地元民の「お接待」である。
行の巡礼を支援することで、私の願いの分まで代参に託して、宿を提供して饗応することで仏恩を授かる、そのお接待は行であり功徳であり、「今昔物語」にも記述されているように、古代から遺伝子に刻まれている地元の伝統なのである。
遠い欧州で戦争中の一部として、中国の一地域にいるドイツ人と日本が戦った、それを日本軍が打ち負かした。
日本人のネアカな鷹揚さは、捕虜となった彼らに憎しみどころか憐れみと同情を誘い、憧れの先進的な西洋文化文明を持つドイツに親しみを持って歓待したのであろうか。
戦争になっても、日本に滞在中のドイツ人は多くいた。
経済活動は禁じられていたが、ほぼ自由な日常生活を過ごしていた
その一般市民のドイツ人たちは、捕虜となった祖国の軍人たちに本や酒、食料、それに楽器やお金なども頻繁に差し入れした。
几帳面なドイツ人たちは規律正しく朝6時30分起床で、コーヒーとパンの朝食。
捕虜収容所とはいえ、中にはレストランや売店もある解放区、ボーリング場や運動施設、酪農に農園、ウイスキー蒸留場まで作られた
祖国で徴兵されてきた兵隊は元々一般市民たちであるから、パン屋、家具、時計、鍛冶職人、靴屋から建築家などあらゆる職人の多士済々がいた。
所内の印刷所では、バラック小屋の語源にもなる、“Die Baracke(兵舎)”と言う新聞も発行されていた。
ドイツ人たちの優れた技術や高度な作品は鳴門の地元民に紹介され、販売もされた。
我が国も、文明開化の明治維新からまだ数十年しか経っていない発展途上、目の前にいる本物のドイツ人たちの重厚な先進文化は喉から手が出るほど欲しくて、貴重で珍しい物ばかりだったはずである。

ドイツと言えば音楽の本場、音楽家も少なくはなかった。
収容所内では定期的にコンサートも開かれ、彼らは外出も許されて日本人の子弟にバイオリンなどを教えた。
写真家・立木義浩の徳島の実家「立木写真館」もレッスン会場になっていたほどである。

これ幸いと積極的に接触を図り、文明文化の啓蒙と移入を推奨した
彼らの指導を受けたパン屋さんが、「敷島製パン」誕生になったように、捕虜帰国後でも、170人ほどが日本に残って、ユーハイムなどの会社を創立している。

一般的に解釈される「捕虜収容所」の悲惨非業なイメージとは程遠い、まさに文化交流センターだったのだろうと、現地を取材していて確信したものである。
ただ、捕虜たちを海水浴に連れて行くなど、異例の待遇で寛大すぎると、松江所長はたびたび軍の上層部に呼び出されて批判されている。
それに対して所長は反論している、「ここは収容所であって、刑務所ではない」と。

1917年4月9日に坂東俘虜収容所が開設されて2か月後。


6月1日には、早くもドイツ兵たちがオーケストラを編成し、日本初どころか、アジア初の、ベートベン作曲「交響曲第9番」の全楽章を演奏している。


日本では年末の定番となっている、人類愛を唄う、あの“喜びの歌”である。
ベートベンが、詩人シラーの「自由賛歌・歓喜に寄せて」を元に1824年に作曲した、荘厳な大合唱付きの交響曲だ。
オーケストラに必要な楽器で足りないバイオリンなどは、捕虜の楽器職人が手作りした。
オーボエやファゴットなど調達できないものは、その音をオルガンで代用し、大合唱に必要な女性部分は、男性捕虜だけで歌えるように編曲した、とある。
本場の「第九」全楽章、フルオーケストラ演奏と、ドイツ語の腹の底から湧き上がる神の声にも聞こえる高貴な大合唱が、いにしえの霊場、第一番札所「霊山寺」のしじまに響き渡る・・・
鳴門の人々が感極まって感動と涙で聴き入っている様子が目に浮かぶ。


6月1日の初演を記念して、今日でも6月第一日曜日には、600人の大合唱と共に鳴門市文化会館ホール一杯に響き渡る「第九」コンサートが毎年開催されている。


ドイツ敗戦で6月28日にベルサイユ条約が締結され、祖国に帰国できるという喜びの中、彼らは地元の皆に喜んでもらおうと労働を続けて、7月27日には、重厚なドイツ式の石積み橋を完成させた。
霊山寺の隣にある大麻比古神社の鬱蒼とした森の中に、高さ9.6mの「ドイツ橋」は今も静かにたたずんでいる。 
1920年(大正9年)4月1日、『ムスター・ラーゲル』(模範収容所)と呼ばれた日独文化交流センター!は、
2年10か月の舞台に幕を降ろした。

地元で親しみを込めて呼んだ「ドイツさん」たちが、いよいよ本国へ帰国する日、鳴門の町は、まるで通夜のようだったと伝わっている。

1972年 その心温まる平和的交流の奇跡的な歴史を残すべく、鳴門の高台に、「ドイツ館」が開設された。
そこには、元捕虜のドイツ人のメッセージが書き残されている。
「世界のどこに、松江のような素晴らしい俘虜収容所長がいただろうか」

松江陸軍少将は、1922年、故郷の会津に帰り若松市長を務める
1956年5月21日、83歳の天寿を全うする。

黒木安馬の「気変わりメニュー」メルマガより引用 https://www.mag2.com/m/0000233212

危険な国との間に緩衝地帯を置く 極東共和国構想より

編集者より

https://www.youtube.com/watch?v=EaZd0oWCZp0
世界を震撼させた日本の極東共和国構想



満洲国ができる(1932年)よりも少し前、わが国もシベリア出兵(1918年)していました。

この出兵は、いまでは、第一次世界大戦における勝利国である英米仏伊加と、日本が、当時ソ連に生まれた共産革命軍によって強制的に囚われたチェコ軍を救出するための共同出兵と言われています。

ただ、早々に主役となるべき帝政ロシア軍が共産党軍によって滅ぼされてしまったために、英米仏伊加軍が、もはや護る意味無しとして、あとは、いちばん近くにある日本に、よろしく頼むと、早々に退散してしまった。
結果、日本陸軍だけがシベリアに取り残されて、シベリアの治安を護ることになる。

その一方で、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が人種の平等を高らかに主張したことで、日本は欧米諸国の、植民地に権利を持つVIPたちを敵にまわしていた。

そのことから、シベリアに残された日本は、孤軍状態におかれ、厳しい戦いを強いられることになったわけです。

このすこし前のことです。
対ロシア対策を指揮していたのが、オトポールでユダヤ人たちを救った樋口季一郎陸軍中将ですが、樋口中将はハバロフスクで、源氏笹の紋章に、漢文で何やら文書の書かれた石碑を発見しています。

当時のシベリアには多数のイエローが住んでいましたが、その上層部にごく少数のロシア人たちがいて、シベリアを勝手に領有しようとしていました。
そして共産パルチザンが、それらロシア人たちを狙い、また有色人種のイエローの民衆たちを強襲していました。

このため樋口中将は、共産パルチザンたちに書簡を送り、シベリアの地はもともとイエローの土地であること。
そして800年前に源義経一行が、北海道から樺太を経由してシベリアに入り、蒙古(猛虎)の将官を名乗って、辺り一帯を領有していた事実があること。
そのため、実際に石碑が残されていることなどを、書き送りました。
つまり「君たちには、この土地を領有する権原がない」ということを手紙にしたためて送ったわけです。

すると何が起きたかということ、その歴史的遺産である石碑に、真っ黒にコールタールが塗られてしまった。
そこでふたたび樋口中将が抗議の手紙を送ると、今度は石碑そのものが、いつのまにか取り壊されてしまったということが、樋口中将の回顧録に書かれています。

そしてこの当時の日本陸軍の考え方として、シベリアに現地の人達による「極東共和国」をつくる。
その領地は、バイカル湖から、北極海に注ぐ大河であるレナ川以東とする。
この「極東共和国」は、シベリアに住むイエロー達による自治国であり、同時に満洲あたりには、やはり満人、および当時急速に人口を増加させていた漢人たちによる、満洲国を、やはり自治国としてつくる。
また、モンゴル族の住むエリアにも、やはり日本が援助してモンゴル共和国をつくる。

そして日韓併合によって日本領となっていた朝鮮半島も、その地に住む人々による自治国をつくり、日本軍は、日本に撤収する・・・といった作戦が建てられていたといいます。
(危険な国との間に緩衝地帯を置く 極東共和国構想より)

 

 

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編集者より

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【国連のデータ捏造発覚!】知らないのは日本人だけ?東大名誉教授が語る“地球温暖化の嘘”?

編集者より

【国連のデータ捏造発覚!】知らないのは日本人だけ?東大名誉教授が語る“地球温暖化の嘘”?

「地球温暖化説」を冷静に見るための11の視点~東大名誉教授が語る~【未来編集】

世界を襲うエネルギー危機、脱炭素の嘘を暴く

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「脱炭素」は嘘だらけ 

【著者略歴】
杉山大志(すぎやま・たいし)
キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。東京大学理学部物理学科卒、同大学院物理工学修士。電力中央研究所、国際応用システム解析研究所などを経て現職。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)、産業構造審議会、省エネルギー基準部会、NEDO技術委員等のメンバーを務める。産経新聞「正論」欄執筆メンバー。著書に『地球温暖化問題の論考―コロナ禍後の合理的な対策のあり方』『地球温暖化のファクトフルネス』『地球温暖化問題の探究―リスクを見極め、イノベーションで解決する

【IPCCや日本政府の審議会で委員を務める著者があらゆる欺瞞を暴く】

◎「CO2ゼロ」は中国の超限戦
◎バイデン大統領はCO2を減らせない
◎脱炭素は国民経済を破壊する
◎気候危機はリベラルのプロパガンダ
◎危機を煽るNHKと環境白書

【櫻井よしこ氏大推薦】

米国の共和党支持者は温暖化危機説がフェイクであることをよく知っている。議会でもメディアでも観測データに基づいた合理的な議論がなされている。
しかし日本はそうなっていない。のみならず強固な利権がそこかしこにできてしまった。
省庁は各々の温暖化対策予算と権限を持っている。
その補助金に群がる企業がある。
研究者は政府予算を使って温暖化で災厄が起きるという「成果」を発表する。
メディアはそれをホラー話に仕立てて儲ける。
この帰結として日本の国力は危険なまでに損なわれつつある。


温暖化のファクトがこの一冊でわかる

【主な内容】
南沙人工島はパリ協定の代償/北京の指令で英国は大停電を起こす/送電網・配電網に接続される中国製品/グリーン投資とウイグル弾圧「/CO2ゼロ」コストは国家予算に匹敵/自治体「CO2ゼロ宣言」と補助金/石炭火力縮小、洋上風力推進、原発停止の値段/太陽光発電は高くつく/複合リスク対策には石炭火力/ドイツの風力発電がストップ/水素エネルギーは内外価格差がネック/気候非常事態はフェイクニュース/地球温暖化で人類は困らない/気温上昇予測は結果を見ながらパラメーターをいじっている/NHKのプロパガンダ「/気候危機」を煽る環境白書/防災白書も誇大報告/脱炭素は新興宗教/検閲された温暖化「懐疑論」/ソーシャルメディアの検閲

 

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[地球のミライ] 2100年に“待っている未来” | NHKスペシャル「2030 未来への分岐点」暴走する温暖化 “脱炭素”への挑戦 | SDGs | NHK

https://www.youtube.com/watch?v=f6J3gptt76I

Japan as "the Light of Hope in Asia" By Henry S. Stokes 

編集者より
Japan as "the Light of Hope in Asia"   By Henry S. Stokes 
元ニューヨークタイムズ東京支社長 ヘンリー・S・ストークス氏講演「日本はアジアの希望の光だ」

【ヘンリー・ストークス】人類史に輝く日本の偉業

 

目覚めよ!日本 連合国戦勝史観の呪縛からの脱却

Scott-Stokes, Henry(著)植田 剛彦(著)藤田 裕行(編集・訳)

ストークス,ヘンリー・スコット[ストークス,ヘンリースコット] [Stokes,Henry Scott]
ジャーナリスト。1938年英国生まれ。1961年オックスフォード大学修士課程修了後、フィナンシャル・タイムズ入社。1964年来日、同年『フィナンシャル・タイムズ』東京支局長、1967年『ザ・タイムズ』東京支局長、1978年『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長(兼ソウル支局長)を歴任

 

https://onl.tw/AfD1QJu

母の日と1970年大阪万博

編集者より

母の日

『お母さんを大切にするんだよ!!』17年前に、70歳で亡くなった父の口癖だった。

母は、奈良県法隆寺の農家で生まれ、大阪の繊維会社に就職。のち父と結婚し、婦人服卸売の会社を起業。

創業50年を迎えその会社は解散。その後、大きな病気もせず、昨年から、週に2度のデイケアセンターでの他のシニアの人たちとの交流を楽しんで、今年で88歳になった。

 

母は、当時珍しいワーキングマザーとして、フルタイムで働きながら、2人の子供を育てた。それのみならず、

教育熱心な祖父の影響でPTAの活動にも長年取り組んだ。

当時は、日教組の影響で、偏った思想を持った教師もいたので、それを何とかしようと他の学校のPTA会長と協力し、『教育を守る会』を組織。

『教師は聖職であるべき』とPTAの立場で教育現場の改革を訴え、地元の有力政治家の応援にも呼ばれるほどであった。

母の口癖は、『自分の家族だけでなく広く社会に役立つ人間になるように!!』

 

子供からすると、当時は普通のお母さんがいいなと思ったこともあった。

しかし、考えてみると、私も留学生の支援の活動をしたり、国際交流のイベントを長年、運営したりしているのも、母の影響が大きいのだと思う。

20年住んだ東京を離れ、去年の8月に地元の関西に戻ってきた。今では、週に1度、実家に寝泊りをして、母との時間を大切に過ごしている。

母と行った、地元の観光名所『司馬遼太郎記念館』

1970年大阪万博

2025年に大阪で再度万博が開かれるが、1970年の万博当時のことを母が懐かしんで話すことがあった。

当時は、外国の文化に触れる機会も限定されていたので、7歳であった私は、外国人のコンパニオンにサインをねだったり、一緒に写真を撮ってもらったりと大興奮だったようだ。

『珍しもの好き』の典型的大阪人の亡き父も、私を連れて、何度も会場に通ったと母は話していた。

子供心に、『太陽の塔』の不思議な存在感は今でも印象に残っている。

こちらが、その当時の様子 https://www.expo70-park.jp/cause/expo/#caption0

今では、長蛇の列を作ったパビリオンもすべて、撤去されて、残っているのは、太陽の塔だけだが、

現在は、太陽の塔の中も見学ができるようになっている。

太陽の塔の公式サイト 太陽の塔の4つの顔とは?

国際紅白歌合戦について

編集者より

国際紅白歌合戦について

国際紅白歌合戦も、外務省、観光庁、大阪観光局、東京都、大阪府、日本アセアンセンター、海外日系人協会、和歌山放送などの後援、また、多くの諸先輩方、有志の面々、実行委員会のボランテイアの皆さんが、支えていただいたお陰で、2011年より、2020年(コロナのためのイベント自粛)を除き、毎年開催することが出来ています。ご支援いただいている皆様、本当に有難うございます。心より御礼申し上げます。2013年からは、大阪でも、大阪観光局の協賛、大阪市、大阪府の後援で、開催することが出来ました。また、その様子は、NHK、毎日新聞などのマスコミ、9ヶ国語に及ぶエスニックメディアのご協力で、国際交流に関心のある日本人や外国人や留学生のコミュニテイーでは、それなりに認知していただけるようになりました。2021年からは、本会場を大阪に移し、海外ともつないでリアルで動画配信にも挑戦しました。

そのお陰で、色々なイベントのプロの方々にも声をかけてもらえるようになりましたが、初心に帰って、これからも謙虚に、粛々と頑張っていくために、このイベントへの想いをまとめておきたいと思います。

NHKの紅白歌合戦は、3世代が、コミュニケーションしながら、楽しめる数少ないテレビ番組といわれています。また、プロデユーサーの方もそのことを意識して、番組を作っておられるとテレビのインタビューで見たこともあります。

『国際紅白歌合戦』のイメージは、親子3世代だけでなく、たとえば、外国人留学生の下宿人や国際結婚した娘のアメリカから来た孫と一緒に楽しんで見るようなイメージです。

実は、東京、大阪では10組に1組が国際結婚している状況をご存知でしょうか?

親戚を見渡せば、おそらく一人くらいは、そんな人がいるでしょう。

もし、今までは、全く外国人の人たちと交流が無くても、自分の姉がアフリカの人と結婚したら、アフリカから来ている人にも親近感を持つでしょうし、自分の息子が、中国人と結婚すれば、国家の体制は別として、そのお嫁さんを理解しようとするのではないでしょうか?

私は、18歳ー24歳までをほぼ海外で暮らしましたが、海外の人たちが、如何に日本の国、文化、また日本人に対していいイメージを持っているかを知りました。そして、多くの人が一度は、日本を訪れてみたいといっていました。

円が安くなり、また他の近隣アジアの国々の生活水準も上がり、これから益々、外国人観光客も増えていくと思います。しかし、日本で暮らしている外国人と親しく付き合っている日本人はまだまだ少数派です。

今こそ、日本人がみんな、一人でもいいので、外国人の友人を職場、学校、地域で作る努力をすれば、日本のファンはもっと増えるし、しいては、そのことが日本の国を守る大きな防波堤になると思います。

私も、18歳の時にオーストラリアでレバノンからの難民の青年と友達になり、世界の人たちがどのようにすれば、平和に暮らせるのか、また、日本人として何が出来るのか、それ以降考えるようになりました。そして、様々な宗教や考え方にも触れました。

30年ほど迷ってたどり着いたのが、自然と一体になった日本の神道の考え方です。

神道は、宗教ではなく、心の持ち方ですから、どんな宗教を持っている人も受け入れ、また受け入れられるユニバーサルなものです。

今までどおりのペースで環境破壊が進むと、2050年には、ほとんどの人間はまともな生活すら、出来ないほど、大きな環境の変化が起こると多くの科学者は訴えています。

 (地球が壊れる前に レオナルド・デイカプリオ主演 ナショナルジオグラフィック 紹介動画)

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今こそ、人間も自然の一部で、その自然と共存していく考え方を持たなくてはいけないと思います。

『自然を征服するのではなく、自然と共生する』神道の考え方が、世界平和にも結びつくと、駐日大使団長のマンリオ・カデロ、サンマリノ駐日大使も著書の中で紹介されています。

自然に畏敬の念を持ち、共生する考え方が身につけば、人を尊重することは、難しいことではありません。争いのない世界に結びついていくと想います。

これは、外国人留学生も同じです。『自然を征服するのではなく、自然に感謝し、共生する』考え方にこそ、未来はあると思います。日本人も外国人もそのことを理解し、お互いを尊重することが出来れば、明るい未来は約束されていると確信しています。

参考図書 (だから日本は世界から尊敬される)

サンマリノ駐日大使、駐日外交団長のが語る神社と文化と精神性

https://www.yokosojapan.net/article.php/201601170sanmarino_editor_ja

国際紅白歌合戦のボランテイアの中心メンバーが中心になって行うボランテイア活動、

『学生通訳ボランティアガイド』について。

https://gc-volunteer-guide.jimdosite.com/

日本からはじまる、価値観の大転換

https://www.yokosojapan.net/article.php/20151001water_feature_ja

こちらは、依頼を受け、日本科学振興機構のサイトに投稿したエッセイです。 (中国人留学生との関わりを通して)

http://www.spc.jst.go.jp/experiences/exchange/exchange_1501.html

国際紅白歌合戦 創設者 & 代表 宮崎計実

国際紅白歌合戦 公式ページ http://www.irws.org/
 

明治150年 真の日本の姿 第一話ー第六話

編集者より

明治150年 真の日本の姿 第一話

世界史を俯瞰しながら、日本史を再考する

江戸時代の進んだ識字率  95%
進んだ『和算』ー関考和の実績
出島を通して入ってきたヨーロッパ文化による刺激は?

なぜ、ペリーだけが開国に成功したのか?

https://www.youtube.com/watch?v=fVIhNbhQeJo&t=36s

明治150年 真の日本の姿 第二話

https://www.youtube.com/watch?v=qC7EZAyHbXA

明治150年 真の日本の姿 第三話

https://www.youtube.com/watch?v=zLrM559rh-E&t=1160s

明治150年 真の日本の姿 第四話

https://www.youtube.com/watch?v=C1uYHy71YII&t=802s

明治150年 真の日本の姿 第五話

https://www.youtube.com/watch?v=w4d7Ebf9a-U

明治150年 真の日本の姿 第六話

https://www.youtube.com/watch?v=oh9ScDDFOv0

明治150年 真の日本の姿 第一話ー第六話

https://www.youtube.com/watch?v=fVIhNbhQeJo&list=PLtudaPinaE7J3iFPjsN4jG3crf7L4TfIq

米国黒人と日本人の知られざる同盟...戦時中の日本が掲げた平和原則

編集者より 米国黒人と日本人の知られざる同盟...戦時中の日本が掲げた平和原則

ほとんどの日本人が知らない:神武天皇から続く...「建国記念の日」の成り立ち

世界遺産に推薦こんなにスゴイ!佐渡金山 400年掘り続けた職人達の姿

現代に蘇る松下村塾 − 伊勢雅臣の「日本志塾」

 

中学からの恩師との別れ

編集者より

天理教本部・神殿(奈良県天理市)

中学時代の恩師との別れ

人は何のために生きるのか?

人生で大事なことは何なのか?

海外への挑戦など、中学時代に大きな影響を受けた恩師の告別式を迎えて。

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恩師で天理教布教師の吉川利雄先生が91歳で出直された。

天理教では、死を迎えることを『出直す』という。

人間の体は神様からの『かりもの』で、古い着物から新しい着物に着替えて、人生を『出直す』。『肉体的な死』は終わりではなく、新しい自分を迎えるための準備期間ととらえる、肯定的な宗教感が自分は好きだ。

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恩師の吉川利雄氏は、元中学の英語教師だったが、ある天理教布教師との出会いから自分もその道を決意。

語学力を生かして、オーストラリア、台湾などでも布教活動を行っていた。

恩師の様々な国での体験談は、海外にあこがれを持っていた中学時代の私には、とても刺激的で、自分も早く海外に出て、いろんな体験をし、多くの人の人生に関われる仕事につきたいと思うようになった。

そして、その夢に近づくべく、天理高等学校(奈良県天理市)に入学。当時は全寮制の学校で、多感な時期に全国から集まる学生とテレビもなく、クラブや勉強に集中できる楽しい時間を過ごした。

卒業後は、留学ではなく、当時、出来たばかりの『ワーキングホリディ』の制度を利用して、オーストラリアに。

その後、イギリスに留学し、イタリアの農場生活や、韓国での『日本語教師』も体験した。

日本に戻ってからは、人の幸せに関わりたいと、海外挙式の仕事に就き、ハワイ、オーストラリアにも出かけるようになった。

そして、結婚し2児の親になり、長男が就職するほど、年月も流れた。

苦しい時代もあったが、『人の役に立つ自分』になりたいという気持ちは一貫していた。

2013年、国際紅白歌合戦というイベントを初めて関西で開催した時も、一番喜んで、協力してくれたのも、恩師の吉川利雄先生だった。母校・天理高校の校長に、私のボランテイア活動をとっても嬉しそうに話してくれ、協力を頼んでくださった。

恩師の吉川利雄氏は、日本でも、行先に困っていたアジアの人たちの親代わりとしての活動も長年続け、その熱心さは、中国語の新聞などでも特集されるほどだった。

しかし、吉川先生に、いわゆる宗教としての道や教えを説かれた経験はあまりない。

全てを自らの行動で示す姿勢に勝る教育はないと思う。

現在の私は、縁あって、大きな問題意識を持って、医療や福祉の関連の仕事もするようになったが、吉川利雄先生から受け継いだ、『行動で示す姿勢』を自分も次の世代に伝えていきたいと思う。

(グローバルコミュニティー 主宰・編集長 宮崎計実)