2025/06/15 22:26

編集者より

マーシャル諸島 ― 歴史と「決して屈しない」精神

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マーシャル諸島 ― 歴史と「決して屈しない」精神

マーシャル諸島は、2025年の大阪・関西万博にナショナルパビリオンを出展し、気候変動への取り組みや伝統文化を世界に発信します。この小さな島国のユニークな歴史と、困難に立ち向かう決意に注目が集まっています。

ユニークな歴史と苦難
マーシャル諸島の歴史は約2,000年前に始まり、16世紀以降はスペイン、ドイツ、日本、アメリカといった列強に支配されてきました。

第二次世界大戦後、マーシャル諸島はアメリカの信託統治領となりました。1946年から1958年にかけて、ビキニ環礁などで67回の核実験が行われ、多くの住民が被ばくや故郷の喪失という苦しみを味わいました。

最大の課題 ― 気候変動

マーシャル諸島の平均標高は約2メートルです。地球温暖化と海面上昇により、国土の大部分が水没の危機にさらされています。マーシャル諸島の人々は世界のCO₂排出量にほとんど寄与していませんが、先進国の排出によって高潮や洪水、食料不安などのリスクに日々直面しています。

決して屈しない精神
マーシャル諸島は350億ドル規模の適応計画を策定し、自国民の命と文化を守るため、世界に支援を呼びかけています。万博のパビリオンでは、気候変動対策や伝統的な航海術、エコツーリズムの取り組みを紹介し、逆境の中で未来を切り拓く姿を発信します。

「国土と文化を守るため、国際社会で声を上げる」――これこそがマーシャル諸島の「決して屈しない」精神の象徴です。

グッドウィンド・シルクさんは、マーシャル諸島パビリオンのスタッフです。

「ラコエ(lakwe)」――愛を意味するこの言葉の精神で、彼とそのコミュニティは、日々の厳しい現実にも前向きな姿勢と決意で立ち向かっています。

マーシャル諸島大学の4年生であるシルクさんは、学生活動のリーダーを務め、現在は万博のスタッフとして自国の文化や現状を来場者に紹介しています。

また、彼は気候変動への意識向上にも積極的に取り組んでいます。例えば、マーシャル語で「あなたの家」を意味する「ジョジクム(Jo-Jikum)」のメンバーでもあります。ジョジクムは島全体のクリーンアップや気候変動ワークショップ、コミュニティ映画上映会などを通じて、若いマーシャル諸島の人々が気候変動に対応できるよう支援する教育団体です。

 

「私たちの文化や生活様式は環境と深く結びついています。それらを失えば、私たち自身のアイデンティティそのものが危機にさらされることになります。」
―― マーシャル諸島 気候問題特使 キャシー・ジェトニル=キジナー

世界語としての中国語 ―台湾茶の体験を通して中華文化を学ぶ― 天理大学100周年記念イベント

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世界語としての中国語 

(中国の民族衣装でイベントを華やかにしていた、中国語学科1年生。)

天理大学中国語学科では、「中国語=中国だけの言葉」というイメージを超えて、世界語としての中国語の魅力を体感できる。実は中国語は、中国本土だけでなく、台湾、シンガポール、マレーシアなど東南アジアの国々でも広く話されている。例えば、シンガポールやマレーシアでは、日常生活やビジネスの場面で中国語が使われており、シンガポールの人口の約75%、マレーシアでも約20%が中華系で中国語を話す。

また、世界の中国語話者は約14.8億人。国連の公用語にもなっているほどで、全世界で5人に1人が中国語を使っている計算だ。つまり、中国語を学ぶことで、アジア各国はもちろん、世界中の人とつながれるチャンスが広がる。
東南アジアの多様な文化や人々と交流できる「世界語」を身に着け、
活躍の場を世界に広げよう!!

2025年5月17日、創立100周年記念事業の一環で開催された「天理大学中国語学科が贈る台湾茶の世界―香りと味わいの旅」という市民講座を訪問した。駅前のイベント会場は、台湾茶の講義や試飲体験、琵琶の演奏などを通じて、地域住民や学生が台湾文化を身近に体験できる場になっていた。

台湾の茶芸は日本の茶道と異なり、形式や作法にとらわれず、自由で気軽にお茶を楽しむ文化が特徴。台湾茶は主に烏龍茶で、香りを重視し、発酵や焙煎の工程で多彩な風味を生み出す。

台湾の代表的な烏龍茶の以下の3種類をそれぞれ楽しむことが出来た。

  • 凍頂烏龍茶:発酵度が低く、花のような香りと爽やかな味わいが特徴。

  • 文山包種茶:軽発酵で緑茶に近い風味、清々しい香りが魅力。

  • 東方美人茶:発酵度が高く、紅茶に近い甘い香りと蜂蜜のような風味。

台湾の烏龍茶は急須で淹れるのが一般的で、茶葉は3回以上繰り返し楽しめる。1煎目は高温のお湯で1分-2分ほど蒸らし、2煎目以降は浸出時間を少しずつ延ばすことで、毎回異なる香りや味わいを堪能できる。急須と湯呑を温めてから茶葉を入れ、1煎ごとにお茶を注ぎ切るのがポイント。台湾烏龍茶は、茶葉が開くごとに風味が変化し、3煎目までしっかりと香りと味を楽しめる。

(文山包種茶を入れる天理大学茶道部4年生の辻さん)

高校時代から、日本の茶道の経験もあり、台湾の東大といわれる台湾大学での1年間の留学経験もある辻直登さんは話してくれた。

『天理大学では、多くの学生が台湾に留学しているが、台湾大学には、世界中からTOPレベルの学生が来ており、様々な国の人たちとの交流が刺激的で、また日本統治時代に日本語教育を受けた世代の方々との交流でも新しい発見があり楽しかった。日本での茶道の経験も台湾の文化を理解する上でも、大いに役に立った』

どうして、中国語を専攻したのか?

高校時代は英語が好きで、英語専攻も考えたが、オープンキャンパスで、中川教授に出会い、中国語の魅力に気が付き、入学することに決めた。中国語は発音が難しいが、その発音に重きを置いた授業が台湾でも役立った。やはり、正確な発音が出来ると、自信を持って話せるし相手にも伝わりやすいので、発音をとても大切にする授業内容は大切だと思う。

奥の深い中国語の魅力

台湾では、繁体字を使うが、繁体字は伝統的な漢字で、画数が多く台湾・香港・マカオで使われている。簡体字は中国本土などで使われ、繁体字を簡略化した字体で画数が少ないのが特徴。繁体字ができると希少なスキルとなり、台湾華語や広東語の習得にも役立つ。

台湾華語は台湾での生活やビジネス、文化理解に不可欠で、台湾独自の表現や繁体字文化に直接触れられる。一方、広東語は香港・マカオや広東省、さらに海外の華僑コミュニティで広く使われ、現地での深い交流やビジネス、エンターテインメントの理解に役立つ。どちらも地域社会や文化に密着したコミュニケーションを可能にし、国際的な人脈やキャリアの幅を広げる重要なスキルだ。

中国語の魅力に目覚めた、辻さんは、大学院に進んで、中国文化の理解を深め、将来は教員になりたいと話してくれた。

中国語と卓球の経験を生かして、『卓球用具のトップメーカー』日本卓球株式会社に内定した、文武両道の佐々木健吾さん

『学生時代から卓球が大好きで、それが高じて、中国語と卓球の両方を学び続けようと天理大学に入学した。そして、交換留学制度を利用して台湾の中文文化大学に留学。台湾でも中国語を学びながら、卓球も楽しむ生活を過ごした。卒業後は、卓球の魅力を伝えるのが自分の仕事になるが、好きな卓球に関わる仕事が出来て本当に幸せだ。』

華僑は、東南アジアはもちろん、アフリカ、ヨーロッパなど、世界中に住んでいるので、卓球を通じて、世界中の人たちと関りを持ちたいと思う。

台湾でも、卓球はとても盛んで、一人でも卓球が出来る機械もあるが、そんなものも世界中に紹介したいと思う。また、簡易の卓球台などもいろいろとあるので、誰でも家で気軽に卓球を楽しめる環境を作るもの夢のひとつだ。

佐々木さんは、高校時代は、卓球を極めたい気持ちもあったが、天理大学に入学し、中国語も使えるようになり、視野が大きく広がったと話してくれた。天理大学では、このように、『自分の趣味』と『語学』を生かして、学生の将来の可能性を広げることのできる環境を提供している。

少人数で、一人一人の学生と向かい合ったその教育姿勢は、大きな大学にはあまりない特色だ。自分の打ち込んでいることのある高校生、世界で活躍したい夢のある高校生には、中国語、特に世界語としての中国語を学べる天理大学での環境は理想的なものだと思う

中国語を学ぶ学生の琵琶の演奏もイベントを盛り上げていた。

 

 

 

大阪・関西万博ベトナムパビリオンと日越関係

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2025年の大阪・関西万博でベトナムパビリオンは、ベトナム戦争終結50周年という特別な日にオープンしました。館内では、伝統衣装アオザイをまとったスタッフが出迎え、水上人形劇や伝統楽器の演奏など、ベトナムの豊かな文化や芸術が体験できます。また、ベトナムコーヒーやフォーなどの本場グルメも楽しめるカフェが併設され、異国情緒あふれる空間となっています。

ベトナムパビリオンの開館は、両国の友好関係の象徴的な出来事です。日本とベトナムは、経済・文化・人的交流の面で年々関係を深めてきました。日本はベトナムにとって最大級の投資国・援助国であり、多くの日本企業がベトナムで事業を展開しています。また、ベトナム人留学生や技能実習生が日本社会で活躍し、両国の架け橋となっています。

文化面でも、アオザイや水上人形劇などベトナムの伝統文化が日本で紹介される機会が増え、日本のアニメやファッションもベトナムの若者に人気です。大阪万博のベトナムパビリオンは、こうした交流をさらに深め、相互理解を促進する場となっています。

万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」に沿って、ベトナムパビリオンは伝統と革新を融合させた展示を行い、両国の持続的なパートナーシップを象徴しています。今後も経済・文化・人的交流を通じて、日本とベトナムはより強固な関係を築いていくことが期待されています。

ベトナムパビリオンで働く、Lyaさんは、ベトナムパビリオンのスタッフとして、6か月間、母国を紹介する大切な任務に就けてとっても光栄に思っていると話してくれた。休みの日も、いろんなことを日本で体験して、いい思い出を作りたいと話してくれました。9月19日に行われる第13回国際紅白歌合戦にも休みを入れて、見に行きますと話してくれました。

 

 

 

ベナンパビリオンが体現する国の特徴 多民族共生社会のモデル

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ベナンパビリオンが体現する国の特徴

多民族共生社会のモデル


ベナンはフォン族・ヨルバ族など42以上の民族が共存し、民族独自の言語や踊りを保持しながらも、フランス語を共通言語として共生する「多文化共生の先進地」。パビリオンでは、冠婚葬祭で披露される民族舞踊の再現や、異なる言語を話す人々が共存する日常を映像展示することで、多様性を力に変える社会モデルを発信する可能性が高い。

 

ブードゥー教と文化融合


ブードゥー教発祥地として知られ、宗教的儀礼と祭りのエンターテインメント性が融合した独特の文化を有する。パビリオンでは、仮面や装飾品を用いた儀式の再現や、奴隷貿易を経て中南米と交わった文化の変遷を、音楽・衣装・工芸品で対比展示する構成が予測される。

持続可能な農業の挑戦


綿花輸出大国でありながら、化学肥料依存の課題を抱える。パビリオンでは、ALDEN団体が推進するオーガニック農業の実践例(コショウやパイナップルのアップサイクル技術)や、伝統農法と近代技術の融合モデルを紹介し、アフリカの農業革新をアピールする可能性が高い。

水上集落と建築遺産


「アフリカのベネツィア」と呼ばれるガンビエの水上集落や、北部の防衛集落タタソンバの土壁建築は、自然と調和した伝統的居住形態の象徴。パビリオンでは、これらを縮尺模型やVR体験で再現し、気候変動時代における持続可能な居住システムとして提案する姿勢が読み取れる。

教育と人的交流


プラン・インターナショナルの女子教育支援や、国際紅白歌合戦に出場した甲南大学留学生ミガンさんの活躍など、国際協力の成果として強調される。パビリオン内に「留学生トークコーナー」を設け、日本との連携事例を発信する構成が想定される。

展示の核となるメッセージ: 「多様性の調和」と「伝統の現代的応用」が、SDGs達成に向けたベナンの戦略的アプローチとして位置付けられる。

館内を親切に案内してくれたパビリオンデイレクターのボーナさんと

詳しく見るにはこちら

https://heyzine.com/flip-book/08c541940a.html

大阪・関西万博テーマソング 『この地球の続きを』

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大阪・関西万博テーマソング 『この地球の続きを』

 (2025  未来 見に行こう!)
 当たり前に 空を飛べる
100年先を想像できるかい?

 (2025  未来 見に行こう!)
 100年前に 笑われてた
 誰かの夢が  今を動かしている

 瞳の色も言葉も 違う
だけど 同じ願いを持っているはず

 こんにちは  桜咲く  こんにちは  幕が開く
 こんにちは 海を越え  この命は 響き合う
 輝きながら  この地球(ほし)は  この命は 続く


あの日夢見た世界は  もう
幻想じゃないのでしょう  鮮やかなイノベーション
( 2025  未来 見に行こう!)

 こんにちは  桜咲く こんにちは  幕が開く
 こんにちは 海を越え  この命は 響き合う
 こんにちは  桜舞う この地球(ほし)は 生きている

こんにちは いつの日か  A Whole New World
飛べる 日を  夢み続ける
子供たちが変えてゆく この地球(ほし)の続きを

(2025  未来 見に行こう!)
(2025  未来 見に行こう!)

神道の理念とSDGsの関連性

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神道の理念とSDGsの関連性

持続可能なコミュニティ(SDG 11: 持続可能な都市とコミュニティ):

  • 神道の祭りや儀式は地域コミュニティの結束を強化し、地域社会の持続可能な発展に寄与します。
  • 地域社会の結束や文化の継承は、持続可能なコミュニティの形成において重要な要素です。

自然との共生 (SDG 13: 気候変動対策)


神道は自然を崇拝し、自然の中に神々を見る考え方に基づいています。この見方は、環境保護と持続可能な資源利用の重要性を強調しています1。環境を守り、自然を保護することは、効果的な気候変動対策にとって非常に大切です神道では、自然そのものが神聖なものとされています。山や川、海などの自然物には神様が宿っていると考えられています。このような自然を大切にする心は、環境問題に取り組む上で重要な役割を果たすことができるでしょう

倫理的な生活(SDG 16: 平和と公正をすべての人に):

  • 神道は明確な教義を持たないが、自然や祖先への感謝の心を持ち、倫理的な生活を重視します。
  • 平和的な共存や公正な社会を目指すSDGsの理念に通じます。

宗教対立の歴史と神道の意義

歴史的に、多くの宗教はその教義や信条の違いから対立や戦争を引き起こしてきました。特に一神教の宗教は、自らの信仰を絶対的な真理と見なすことが多く、他の信仰体系との衝突が起こりやすい傾向にあります。

神道は、多神教であり他の宗教との共存を比較的容易に受け入れる特徴があります。これは、以下の点で重要です。

  1. 寛容性と共存:
    • 神道は多神教のため、他の信仰体系や神々を受け入れることが可能です。これにより、宗教間の対立を避け、平和的な共存を促進します。
  2. 柔軟な信仰体系:
    • 神道には厳格な教義がないため、他の宗教や文化との融合が容易です。例えば、日本では仏教と神道が共存しており、両方の信仰が生活の中で調和しています。

結論

SDGsの目標を達成するためには、多様な宗教や文化が持つ持続可能な生活様式や倫理観を尊重し、取り入れることが重要です。神道の自然崇拝や地域コミュニティの重視、寛容な信仰体系は、SDGsの理念に深く共鳴します。宗教間の対立を避け、持続可能な未来を築くために、神道のような柔軟で調和を重んじる宗教の考え方は非常に有意義であると言えます。

NHK 放送80周年記念ドラマ ハルとナツ~届かなかった手紙

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NHK 放送80周年記念ドラマ   ハルとナツ~届かなかった手紙

日本とブラジルに引き裂かれて生きたふたりの姉妹の70年。その人生の歳月をスケール豊かに浮き彫りにし、「日本」と「日本人」のありかたを問う壮大な大河ロマン。橋田壽賀子のオリジナル脚本で描く、日本人の「絆」を見つめる物語。放送開始80周年を記念して放送するNHK大型ドラマ。

https://youtu.be/KM3rhI36DJQ?si=5KZekuIprI-WxMAQ

移民がみた『ハルとナツ』=現実はドラマ以上!

 

『交響曲第九番』 アジア初演の秘話 軌跡の捕虜収容所

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軌跡の捕虜収容所 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話

 

⇒ Ludwig van BEETHOVEN 『交響曲第九番』 アジア初演の秘話

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ  
一、      年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ  
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ  
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ  
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ  
ならぬことはならぬものです

これは明治維新となる戊辰戦争で、最後まで徳川幕府藩として薩長連合軍と戦った、白虎隊に象徴される会津藩の『什の掟(じゅうのおきて)』である。
明治新政府の官軍に滅ぼされて苦難の体験をした福島・会津藩士の息子、松江豊寿(まつえ・とよひさ)陸軍大佐は、降伏した者としての屈辱と悲しみの中で憤死した父の遺志を引き継いで、“ならぬことはならぬものです”の正義を、かたくなに守り通したサムライだった。
そのサムライ魂のお陰で、日本とドイツの絆は歴史に残ることになる。


明治維新は1868年。
日本は各藩の武士社会から、国を挙げての富国強兵の西洋式軍隊に変貌し、1904年には世界最強国のロシア帝国を倒してしまうという日露戦争に進む。
コロンブスの大航海時代以来、地球の至るところを植民地化していた白人を、極東の小国、それも有色人種が打ち負かした事実は、トルコ独立など世界的に大きな影響を与えた。
日露戦争前年の1903年にはライト兄弟が有人機の初飛行に成功している。
それから10年後の1914年、第一次世界大戦が始まる。
飛行機も空からの攻撃に加わるほど進化している。
ドイツを中心とするオーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国が、イギリス・フランス・ロシア・イタリア・アメリカ・日本の連合国を敵に戦った戦争である。
ドイツは中国の青島(チンタオ)を植民地化してアジアの根拠地にしていた。
日本は連合国の一員として、敵国であるドイツ基地を攻略するべく、中国へ3万人の軍隊を進めた。
本国からはるか遠い中国で孤軍奮闘のドイツ軍は、77日間であっけなく降伏した。 
森鴎外が1884年、北里柴三郎が1885年、瀧廉太郎が1901年にと、多くの国費留学生がドイツに渡ったように、わが国の明治の文明開化は、ドイツに学び、法律や医学などドイツ文化を真似て追随したものが圧倒的に多かった。
そのわずか数年後に、ドイツを敵にして戦争をしなければならなかったのは、伊藤博文を始め、夏目漱石などの英国留学が示すように、幕末の動乱に暗躍して坂本龍馬に多大な援助をしたグラバーなど、地球上の1/4を植民地化している強国、維新の原動力を提供した大英帝国と日英同盟を結んでいたためだった。

世界の一流国と肩を並べるには連合国の一員にならなければならなかった事情があった。

4715人ものドイツ兵を戦争捕虜としたが、そこからが大問題だった。
捕虜となって辱めを受ける前に「自決」するのが軍人、その日本的な考え方があったため、まさかこれほど大量の捕虜を受け入れることになるとは誰も考えていなかった。
1899年に国際的に締結されていた「ハーグ陸戦条約」の捕虜規定では、「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」と、人道最優先となっていた。
強制労働や虐待は国際相互協定で禁止されていたのだ。
後進国である日本を、白人国の欧米列強に「文明国である」と認めさせるためには、条約を紳士的に遵守して、武士道精神を国際的に展開してみせるしかなかったから、10年前の日露戦争でも世界が驚くほどロシア兵の捕虜を丁重に扱っていた経緯がある。

4462名の捕虜(俘虜・ふりょ)たちは、貨物船で門司港に輸送され、北海道を除く全国12か所の収容所に振り分けられた。
膨大な人数の捕虜は受入れ態勢が不十分なまま、お寺や公民館から、急遽しつらえた粗末な仮設収容所に押し込められた。
仮設の環境は劣悪不潔で食料も乏しく、将校クラスも特別待遇を受けることはなかった。
脱走兵や規律違反の捕虜に制裁を加えるのは各所長の判断であり、身内を戦死させた敵兵への憎悪や体罰も、それなりにあったものと想像される。
やがて、新しい6か所の収容所が準備出来次第、それぞれに分けて各地へ移送された。


阿波踊り、渦潮と言えば、神戸から淡路島、そして四国へ渡る玄関口の鳴門。
鳴門海峡に渦巻く世界最大の渦潮の形から、「鳴門巻」が生まれた
鳴門の撫養(むや)港に最も近いのが、お遍路88か所巡礼の一番札所である高野山真言宗「霊山寺(りょうぜんじ)」。

板東俘虜収容所(ばんどう・ふりょ・しゅうようじょ)は、その霊場の一番札所に隣接した聖武天皇由来の由緒ある、
大麻比古(おおあさひこ)神社近くの、徳島県鳴門市大麻町、坂東郡板東町の陸軍演習場に新しく作られた。
全国でも最大規模の5万7千平方kmの敷地、所内で流通する紙幣や切手も印刷するなど商工業街区も用意された。
ちなみに、野球選手でタレントの板東英二は、ここの板東町出身である。
娘さんの坂東愛子さんは、私のJAL時代の国際線客室乗務員(CA)である。 


新設の板東俘虜収容所、所長には戊辰戦争で敗軍の会津出身ながら、陸軍士官学校を経て陸軍のエリート街道を苦労して進んできた、44歳の松江豊寿が就任した。
彼は官軍による屈辱の中で憤死した武士の父を瞼に浮かべながら、部下たちに訓示した。
「祖国を遠く離れた孤立無援の中で降伏した者の屈辱と悲しみは計り知れない。
絶望の状況で祖国愛に燃えながら最後まで勇戦敢闘した勇士たちである。
彼らの愛国精神と勇気は敵の軍門に下ってもいささかも損壊されることはない。
彼らの名誉を重んじ、武士の情けを根幹とする対応をすべてに心掛けよ。
理不尽に捕虜を犯罪者のように扱うことは固く禁じる!」  

人口500人の小さな坂東の田舎町に、1028人ものドイツ兵捕虜が住み始めた。
それは、1917年(大正6年)4月9日から始まり、1919年6月28日に、ドイツが敗戦降伏して、ドイツ皇帝が亡命し、ベルサイユ宮殿の鏡の間で「ベルサイユ講和条約」が締結されて、その年のクリスマスにドイツ本国へ捕虜送還が始まるまで、2年10か月続いた。


戦争であるから、当然数千人の死傷者が出ている。
日本各地から徴兵されてドイツ軍と戦って戦死した家族を持つ遺族は、その敵兵が捕虜となって我が国にやってくることにどのような感情を抱いたか? 
初めて目にする白人たちに相当な敵愾心と怨念がぶつけられるものと想像に難くない。
ところが、当時の写真や史料を調べて驚いた。
捕虜を乗せた列車が駅に到着すると、鳴門の皆さんは阿波踊りで迎えているではないか!
若い娘たちはタレントに群がるようにハンカチを振りながら駆け寄り、ドイツ兵たちはアコーディオンやハーモニカ、マンドリン演奏と合唱で歓迎に応じている。
まだ大戦さなかの、敵と味方である。信じられない光景だ。

なぜか? 
鳴門は、四国88か所お遍路巡りの、第一番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」の地元。
空海・弘法大師は、すぐお隣の香川県善通寺の生まれ。
全国から訪れる四国一周の「歩き遍路」はここから始まる。
いつも空海さまと一緒に巡礼していますよと言う、「同行二人(どうぎょうににん)」と書き付けた笠をかぶって、1340kmも街道を歩きぬく難行である。
歩きだけで達成できる人は40%と言われる。
その心の拠り所は、行く先々での地元民の「お接待」である。
行の巡礼を支援することで、私の願いの分まで代参に託して、宿を提供して饗応することで仏恩を授かる、そのお接待は行であり功徳であり、「今昔物語」にも記述されているように、古代から遺伝子に刻まれている地元の伝統なのである。
遠い欧州で戦争中の一部として、中国の一地域にいるドイツ人と日本が戦った、それを日本軍が打ち負かした。
日本人のネアカな鷹揚さは、捕虜となった彼らに憎しみどころか憐れみと同情を誘い、憧れの先進的な西洋文化文明を持つドイツに親しみを持って歓待したのであろうか。
戦争になっても、日本に滞在中のドイツ人は多くいた。
経済活動は禁じられていたが、ほぼ自由な日常生活を過ごしていた
その一般市民のドイツ人たちは、捕虜となった祖国の軍人たちに本や酒、食料、それに楽器やお金なども頻繁に差し入れした。
几帳面なドイツ人たちは規律正しく朝6時30分起床で、コーヒーとパンの朝食。
捕虜収容所とはいえ、中にはレストランや売店もある解放区、ボーリング場や運動施設、酪農に農園、ウイスキー蒸留場まで作られた
祖国で徴兵されてきた兵隊は元々一般市民たちであるから、パン屋、家具、時計、鍛冶職人、靴屋から建築家などあらゆる職人の多士済々がいた。
所内の印刷所では、バラック小屋の語源にもなる、“Die Baracke(兵舎)”と言う新聞も発行されていた。
ドイツ人たちの優れた技術や高度な作品は鳴門の地元民に紹介され、販売もされた。
我が国も、文明開化の明治維新からまだ数十年しか経っていない発展途上、目の前にいる本物のドイツ人たちの重厚な先進文化は喉から手が出るほど欲しくて、貴重で珍しい物ばかりだったはずである。

ドイツと言えば音楽の本場、音楽家も少なくはなかった。
収容所内では定期的にコンサートも開かれ、彼らは外出も許されて日本人の子弟にバイオリンなどを教えた。
写真家・立木義浩の徳島の実家「立木写真館」もレッスン会場になっていたほどである。

これ幸いと積極的に接触を図り、文明文化の啓蒙と移入を推奨した
彼らの指導を受けたパン屋さんが、「敷島製パン」誕生になったように、捕虜帰国後でも、170人ほどが日本に残って、ユーハイムなどの会社を創立している。

一般的に解釈される「捕虜収容所」の悲惨非業なイメージとは程遠い、まさに文化交流センターだったのだろうと、現地を取材していて確信したものである。
ただ、捕虜たちを海水浴に連れて行くなど、異例の待遇で寛大すぎると、松江所長はたびたび軍の上層部に呼び出されて批判されている。
それに対して所長は反論している、「ここは収容所であって、刑務所ではない」と。

1917年4月9日に坂東俘虜収容所が開設されて2か月後。


6月1日には、早くもドイツ兵たちがオーケストラを編成し、日本初どころか、アジア初の、ベートベン作曲「交響曲第9番」の全楽章を演奏している。


日本では年末の定番となっている、人類愛を唄う、あの“喜びの歌”である。
ベートベンが、詩人シラーの「自由賛歌・歓喜に寄せて」を元に1824年に作曲した、荘厳な大合唱付きの交響曲だ。
オーケストラに必要な楽器で足りないバイオリンなどは、捕虜の楽器職人が手作りした。
オーボエやファゴットなど調達できないものは、その音をオルガンで代用し、大合唱に必要な女性部分は、男性捕虜だけで歌えるように編曲した、とある。
本場の「第九」全楽章、フルオーケストラ演奏と、ドイツ語の腹の底から湧き上がる神の声にも聞こえる高貴な大合唱が、いにしえの霊場、第一番札所「霊山寺」のしじまに響き渡る・・・
鳴門の人々が感極まって感動と涙で聴き入っている様子が目に浮かぶ。


6月1日の初演を記念して、今日でも6月第一日曜日には、600人の大合唱と共に鳴門市文化会館ホール一杯に響き渡る「第九」コンサートが毎年開催されている。


ドイツ敗戦で6月28日にベルサイユ条約が締結され、祖国に帰国できるという喜びの中、彼らは地元の皆に喜んでもらおうと労働を続けて、7月27日には、重厚なドイツ式の石積み橋を完成させた。
霊山寺の隣にある大麻比古神社の鬱蒼とした森の中に、高さ9.6mの「ドイツ橋」は今も静かにたたずんでいる。 
1920年(大正9年)4月1日、『ムスター・ラーゲル』(模範収容所)と呼ばれた日独文化交流センター!は、
2年10か月の舞台に幕を降ろした。

地元で親しみを込めて呼んだ「ドイツさん」たちが、いよいよ本国へ帰国する日、鳴門の町は、まるで通夜のようだったと伝わっている。

1972年 その心温まる平和的交流の奇跡的な歴史を残すべく、鳴門の高台に、「ドイツ館」が開設された。
そこには、元捕虜のドイツ人のメッセージが書き残されている。
「世界のどこに、松江のような素晴らしい俘虜収容所長がいただろうか」

松江陸軍少将は、1922年、故郷の会津に帰り若松市長を務める
1956年5月21日、83歳の天寿を全うする。

黒木安馬の「気変わりメニュー」メルマガより引用 https://www.mag2.com/m/0000233212

危険な国との間に緩衝地帯を置く 極東共和国構想より

編集者より

https://www.youtube.com/watch?v=EaZd0oWCZp0
世界を震撼させた日本の極東共和国構想



満洲国ができる(1932年)よりも少し前、わが国もシベリア出兵(1918年)していました。

この出兵は、いまでは、第一次世界大戦における勝利国である英米仏伊加と、日本が、当時ソ連に生まれた共産革命軍によって強制的に囚われたチェコ軍を救出するための共同出兵と言われています。

ただ、早々に主役となるべき帝政ロシア軍が共産党軍によって滅ぼされてしまったために、英米仏伊加軍が、もはや護る意味無しとして、あとは、いちばん近くにある日本に、よろしく頼むと、早々に退散してしまった。
結果、日本陸軍だけがシベリアに取り残されて、シベリアの治安を護ることになる。

その一方で、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が人種の平等を高らかに主張したことで、日本は欧米諸国の、植民地に権利を持つVIPたちを敵にまわしていた。

そのことから、シベリアに残された日本は、孤軍状態におかれ、厳しい戦いを強いられることになったわけです。

このすこし前のことです。
対ロシア対策を指揮していたのが、オトポールでユダヤ人たちを救った樋口季一郎陸軍中将ですが、樋口中将はハバロフスクで、源氏笹の紋章に、漢文で何やら文書の書かれた石碑を発見しています。

当時のシベリアには多数のイエローが住んでいましたが、その上層部にごく少数のロシア人たちがいて、シベリアを勝手に領有しようとしていました。
そして共産パルチザンが、それらロシア人たちを狙い、また有色人種のイエローの民衆たちを強襲していました。

このため樋口中将は、共産パルチザンたちに書簡を送り、シベリアの地はもともとイエローの土地であること。
そして800年前に源義経一行が、北海道から樺太を経由してシベリアに入り、蒙古(猛虎)の将官を名乗って、辺り一帯を領有していた事実があること。
そのため、実際に石碑が残されていることなどを、書き送りました。
つまり「君たちには、この土地を領有する権原がない」ということを手紙にしたためて送ったわけです。

すると何が起きたかということ、その歴史的遺産である石碑に、真っ黒にコールタールが塗られてしまった。
そこでふたたび樋口中将が抗議の手紙を送ると、今度は石碑そのものが、いつのまにか取り壊されてしまったということが、樋口中将の回顧録に書かれています。

そしてこの当時の日本陸軍の考え方として、シベリアに現地の人達による「極東共和国」をつくる。
その領地は、バイカル湖から、北極海に注ぐ大河であるレナ川以東とする。
この「極東共和国」は、シベリアに住むイエロー達による自治国であり、同時に満洲あたりには、やはり満人、および当時急速に人口を増加させていた漢人たちによる、満洲国を、やはり自治国としてつくる。
また、モンゴル族の住むエリアにも、やはり日本が援助してモンゴル共和国をつくる。

そして日韓併合によって日本領となっていた朝鮮半島も、その地に住む人々による自治国をつくり、日本軍は、日本に撤収する・・・といった作戦が建てられていたといいます。
(危険な国との間に緩衝地帯を置く 極東共和国構想より)

 

 

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