2024/03/29 18:45

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ただ、愛する人たちを助けたい 西條剛央氏インタビュー

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ただ、愛する人たちを助けたい


目の前の人を助けたいという本気の気持ちが起こした奇跡。

3.11の大震災後数ヶ月間、役所などに送られた救援物資が必要な人のところに効率的に届かないという問題があったが、そんな中、物資を受け取りたい人に直接必要なものが届くというシンプルなシステムを考え実行に移したのが、『ふんばろう東日本支援プロジェクト』(以下『ふんばろう』)代表の西條剛央(サイジョウタケオ)さんだ。また、西條さんはその方法をツイッターで何万という人たちに瞬く間に伝え、救援物資の配送のあり方に革命を起こした。被災地の人たちの間で、今一番頼りにされている人物の一人に、今野英太郎さん(レイクランド大学ジャパンキャンパス)、郭伊如さん(上智大学)がお話をお聞きしました。



   
早稲田大学で行われたライブトーク    研究室でインタビュー



(今野)私も実家が石巻市で1ヶ月半に渡りボランテイアで瓦礫の整理などをしたのですが、現地のリーダが不在で大変な思いをしました。西條さんが、現地に入って活動をする中で一番強く感じたことは何ですか?


(西條)今までにだれも経験したことのない程の震災ですからね。『行ってみないとわからない』と簡単に片付けたくありませんが、私の想像をはるかに超える被害でことばを失ってしまいました。私は大好きだったおじを亡くし、また親族や友人たちも大きな被害を受けました。現地で活動をしていても、『がんばって』という言葉はかけづらいです。もう、みんな十分に悲しい気持ちを抑えてがんばっていますからね。暑い避難所の中、今でも扇風機すら十分にない生活をしている人がいる状態です。まだまだ私たちがやらないといけないことはたくさんありますよ。

(今野)『ふんばろう』の活動が、短期間に多くの人たちに広がった原因は何だと思いますか?

(西條)私の研究している『構造構成主義』に基づき、現地の状況をよく把握して、出来るだけシンプルに支援活動をしたからだと思います。支援物資を送るためのマッチングサイトはすでにありましたが、被災地ではインターネットにアクセスして情報を得ている人は少数派です。私たちは避難している人のところに直接行って、必要なものを聞いてリストにし、サイトにアップしていきました。
宅配便が通じていたのも幸いして、サイトを通じて物資を受ける人と送る人が直接結びつき、やがてそれが単に『物資を送る行為』から、『物資を受け取る特定の個人を助ける思い』に変っていき、支援する気持ちも強くなっていったと思います。被災地の状況を現地から伝えるには、ツイッターは大変役に立ちましたね。被災地の生々しい情報が拡散するスピードに『人々の被災地の人を助けたい』という気持ちが乗っかり、あっという間に『ふんばろう』の仲間が加速度的に増えていきました。あと、少々うまくいかないことや批判などがあってもそれが5%ぐらいであれば、あえて目をつぶって、どんどん計画を進めていきました。『ただ、被災者のためだけに』という思いを貫いていったことがよかったと思います。



(郭)学生として震災に対してどのように取り組めばいいと思いますか?


(西條)私も周りの学生には、とにかく、現地を見てきてほしいと言っています。今の若者たちの恵まれた環境では、人の痛みや深い悲しみに共感する気持ちを育んでいくことが難しい人もいると思います。しかし、現地を一度見てきた人は、明らかに支援に対する気持ちが変わっていきます。ボランテイアの活動をしているうちに心の底から何とかしてあげたいという気持ちも湧いてくると思います。私は、ボランテイアと思ってこの活動をしていません。ご飯を食べるのと同じくらい自然に、とにかく現地の人を助けたいという思いで行動しています。多くの仲間も同じ気持ちだと思いますね。
震災後すでに4ヶ月がたちましたが、被災地ではまだまだ復興というには程遠く、皆さんの継続した支援が必要とされています。緊急を要する『ガイガーカウンタープロジェクト』『家電プロジェクト』や新たに立ち上がった『エンタメ班』『学生班』なども活動を開始しています。就職のための勉強も大切だと思いますが、キャンパスでは学べない、生涯忘れることの出来ない出会いや経験を『ふんばろう』の活動を通して皆さんにしてほしいですね。


西條剛央(たけお)氏・・早稲田大学大学院(MBA)専任講師。専門は心理学や(科学)哲学。「構造構成主義」というメタ理論を体系化。実家が仙台なので犠牲になった人たちのためにも今の自分にできることをしたいと思い『ふんばろう東日本支援プロジェクト』http://fumbaro.org を立ち上げる。
構造構成主義研究会の公式ホームページ
http://sites.google.com/site/structuralconstructivism/
twitterID:@saijotakeo (follower:17,532)

 

インタビューした学生の感想


今野英太郎さん

西條先生のおっしゃっていた、’ボランティアをしていると思った事はない’。というのがとても印象的でした。自分もそのように感じていてよく人に’がんばってるね’ とか ’偉い’ などと言われますが、友達、親戚が苦しんでいたらそれを助けるのは人間として当たり前の行動であり、むしろ犠牲になった友を思えば何もしてあげられなくて申し訳ないというのが正直な感想です。そのような事に改めて気づく事ができました。



郭伊如さん

多忙のところにインタビューの時間を作ってくださった西條先生にとても感謝しています。直接話ができて、大変光栄でした。インタビューの中に、一番印象的だったのは西條先生が言われた「私はボランティアと思って活動しているのではなく、自分ができることを困っている人にやってあげたいだけです」という言葉でした。こういう考えがあるからこそ、いろいろ実現できたと感じました。今被災地の状況もまだまだ楽観できないので、より多くの方々が被災地に注目していただきたいと思います。小さなことからスタートしても、みんなの力を合わせれば大きな効果があると思います。

今野英太郎さん

西條先生のおっしゃっていた、’ボランティアをしていると思った事はない’。というのがとても印象的でした。自分もそのように感じていてよく人に’がんばってるね’ とか ’偉い’ などと言われますが、友達、親戚が苦しんでいたらそれを助けるのは人間として当たり前の行動であり、むしろ犠牲になった友を思えば何もしてあげられなくて申し訳ないというのが正直な感想です。そのような事に改めて気づく事ができました。


ふんばろう東日本支援プロジェクト

 



1:「必要なものを必要な分、必要とする被災者に送りたい」7月20日現在で1,100ヵ所以上の避難所や個人避難宅に計1万5千回以上物資を送り届けています。家で余っているものを送っていただくのはもちろんのこと、Amazonの欲しい物リストと連動させることで世界中から支援が可能になっています。

2:家電を集めて被災者に大量に送り届けるのが「家電プロジェクト」です。家で使っていない家電を被災地に送ってあげることにより、被災者は生活を取り戻して いくことができるのです。また「お手紙プロジェクト」や「傾聴プロジェクト」といった後方支援と連動させることにより、被災者のメンタル面のケア にもつなげていきます。

3:被災地で最も需要がある重機免許を、被災者に無料で取得してもらえるよう支援しております。3万円の支援金で一 人に重機免許を与えることができます。3万円の生活費はすぐになくなってしまいますが、重機免許があれば300万円を稼ぐことも可能になるのです。もちろん、ただでさえ経済が冷え込んでるなか、就労機会の確保にはそれぞれの事業主様のご協力も必要です。これからも中長期的な視野に立って、支援を続けて行く予定です。

4:専門家による正しい放射線量測定の仕方や読み取り方の講習を受けてもらい、ガイガーカウンターを集めて必要としている地区(小学校、保育園)に貸し出し、各自が生活空間の相対的な安全度をチェックできるように支援します。そのためにはガイガーカウンターが必要です。6万円あれば1台のレンタル用ガイガーカウンターを入手できます。100台あれば一日に100家庭に貸 し出すことができます。台数が揃えば揃うほど多くの方に貸し出して、生活エリアの安全をチェックしていただくことができるのです。

その他にも多数のプロジェクトを立ち上げ、ただただ「被災者支援」だけを見つめて行動していきます。皆様の温かいご支援をどうぞよろしくお願いします。


「ふんばろう東日本支援プロジェクト」 http://fumbaro.org/
 

新しい価値観を日本から発信していこう !!

特集

 

 

 

新しい価値観を日本から発信していこう !!

WORLDSHIFT:
今こそ新しい価値観への転換を!!

 


(WorldShiftのロゴ)

自分の置かれている状況を何とかしたいと思い、心ある人達が行動を起こしている。教育、経済、環境、医療、新エネルギー、共同体の思想など自分の関われる小さなことからはじめていきましょう!!

一人ひとりの生活の仕方を、お金の軸から命の軸へ、仕事中心から家族や自然環境などの命中心の軸へ。「いい学校に入って、いい会社に入るには?」「どうしたらもっと経済的に豊かになれるのか?」そのような価値観から、「本当の幸せって何?」「助けあって生きていく幸せ」を大切にする世の中へ。3.11の大きな災害で命を落とし

た人たちの為にも、一人ひとりが少しずつ生活のスタイルを変えていきながら、未来の子供たちの為に新しい価値観を築いていこうと行動を起こす時がまさに今です。
私たちの世界は今、「緊急事態」にあります。そしてこの世界的な危機は、より深刻な問題につながる兆候でもあります。 気候変動、経済破綻、エコシステムの崩壊、人口過密、水と食料の不足、資源の枯渇、原子力などの脅威。遅かれ早かれ、そうした危機はすべての人類に例外無く影響を及ぼします。このまま持続不可能な道を突き進めば、今世紀の中頃までに地球の大部分は、人間をはじめ多くの生物が生息できない場所へと変わり果てることでしょう。しかしながらエコロジカルな惨事、もしくは宗教や地政、資源をめぐる衝突が引き起こす戦争の悪化などによって、総合的な体制崩壊はもっと 早く訪れるかもしれません。
こうした脅威は現実のものです。この世界的危機の原因となるものは、ここ数十年、ますます勢いづいて、近いうちに取り返しがつかなくなります。そのタイムリミットは今世紀末と見られていましたが、今世紀の中頃、20年以内、10年、5年とどんどん早まっています。今、わたしたちは、わたしたち自身と、世界についてどう考えるのか、ということが問われています。これまでとは違う考え方が早急に求められる今は、同時に、新しい価値観や優先権を再考するチャンスでもあります。人々と自然が調和の中で共存するために、私たちが相互連携していることを理解し、新しい方向へとシフトするチャンスなのです。
日本・日本人の役割とは?
本来の日本は自然と共にあり、協調や協力を重んじてきました。しかし戦後、日本は急進的に産業を発展させ、物質主義にシフトしました。今、もう一度本来の 「和」の精神を見直し、それをテクノロジーと融合させ、最新の知識と伝統的な価値観を併せ持つ新しい文明を開いてゆくことが求められています。(http://www.worldshift.jp/  ワールドシフト宣言HPより)


『WorldShift Forum 2011 -シフトを、日本から。-』の動画は、ワールドシフト・ネットワーク・ジャパンHPからご覧頂けます。


 
一昔前まで、日本人の大多数は農民であり自然に感謝し、畏敬の念を持って暮らしてきました。しかし、戦後の急激な産業発展で、日本の精神文化は失われ物質主義が蔓延するようになってしまいました。3.11の大災害は、日本人が本来大切にしてきた考え方を共有する大きなきっかけになるでしょう。今でも10万人を超える人達が不便な生活を強いられ、原発の問題も未だに解決したわけではありません。しかし、世界中の人達が、だれを攻めるでもなく震災に立ち向かう、日本人の「我慢強さ」「自己犠牲の精神」に驚き、敬意を示しました。WORLDSHIFTを加速させるには、日本人の本来持っている『自然と共に暮らす価値観』を『日本』から、『FUKUSHIMA』から発信することが大切だと思います。

 



 

 

東京から日本を復活させる

特集

 

東京から日本を復活させる

 


経営者から転身。

政治の世界に挑戦する『渡邉美樹』氏にインタビュー  

渡邊氏は若くして外食事業で成功し、介護、農業、医療、教育などの分野でそれぞれ独自のスタイルで厳しい事業環境を改革しながら事業を伸ばしてきた。その中で規制という政治の壁にぶつかり、経営力で日本を復活させると東京都知事選に立候補。既存の政治家ではありえない『無関心NO』、『夢とありがとうが世界一あふれる東京に』というメッセージで若い人たちを中心に心をつかむ渡邉氏に、母校明治大学の後輩張新君がお話を聞いた。



Q1:立候補しようと思われた一番の理由は何ですか?
A1:13兆円という予算を持って、都民1300万人の皆さんに喜んでいただけるよう、『東京を経営したい』と思ったからです。私は、外食、介護、農業、医療、教育などの分野で事業を起こし、27年間増収増益の業績を上げてきました。経営者の視点を持って、徹底した業務の効率化、ムダの削減などに取り組めば、もっと効率的に東京都の運営を出来ると思っています。

Q2:東京の高校生の10人にひとりを留学させたいという考えに私も大賛成ですが、どのようにすれば、多くの若者が海外を目指し、自分の可能性を広げようとすると思われますか?
A2:現状では、夢物語に聞こえるかもしれませんが、学生たちを支援する体制をしっかり作れば、10人にひとりが留学することは十分に可能だと思います。多感な高校生の時に世界を見ることで子供たちの無限の可能性を広げていくことが出来ると信じています。先進国の中で日本だけが海外で学ぼうとする人が減っている。この現状を変えていくことは、未来の日本には本当に大切な事です。

    

Q3:東京都民は、東京が『観光都市』という意識があまりないと思いますが、観光都市として東京を魅力のある街にするには何が一番必要だと思いますか?

A3:東京という街をブランドにしたいですね。東京といえば、これだという思い出の小箱を作っていきたいと思っています。『ファッション』『アニメ』『グルメ』他東京には世界の人が注目する多くの魅力があると思います。私を都知事にしていただいたならば、現在700万の観光客を倍の1400万人にしたいと目標を立てています。東京都民の人たちに東京の魅力にもっと気づいてもらい、外国人の観光客を暖かく迎える雰囲気を東京に作っていきたいと思います。

  
Q4:夢に向かって頑張っていても、中々うまくいかない時、どのようにしてモチベーションを上げていったらいいでしょうか?

A4:夢を持って、いつもその夢を諦めずに追いかけることが大切です。私の本にも書いていますが、『夢に日付』を入れて自分がその夢を叶えている姿を具体的に想像することで、モチベーションを高めることが出来ると思います。しかし、夢を叶えるには困難があるのは当たり前です。その困難を、『夢に日付』を入れて、ワクワクした気持ちで楽しく乗り越えていくことが大切ですね。

Q5:留学生が東京でもっと活躍できる場所を作ってほしいと思っていますが、東京にどんどん外国人や留学生が増えていくことをどのように思っておられますか?
A5:それはとても大切な事ですね。東京都が運営している首都大学東京でも、世界に大きく門戸を開いて、多くの優秀な教授や留学生を招いて、世界の人から目標にされるような大学にしたいですね。

Q6:日本人大学生や日本で勉強する留学生にメッセージをお願いします。
A6:私は学生時代に、アジア・ヨーロッパ・アメリカを回りましたが、その時にニューヨークのライブハウスで色々な国の人々が楽しく交流するのを目の当たりにした経験が、外食事業で起業しようと思ったきっかけでした。今は、その時以上に国境を意識しない時代になっています。日本人であろうがどこの国の人であろうが地球人として、自分の国を思うと同じように世界の友人を思うことが大切だと思います。お互いが理解し合おうとする姿勢で接すれば、素晴らしい世界になると思います。

10歳の時に母を亡くし、父親が事業を清算。苦労の中祖母に育てられた渡邉氏は、小学校5年生の時から社長になると決意。『夢に日付』を入れて次々と振りかかる困難を乗り越え、多くの業界で見事成功を収める。インタビューの際に感じたことは、渡邉氏は『全てはお客様の為にという思いを貫けばどんな事業でも成功出来る』という確信を持っているということだ。政治や行政に携わる人たちへの不信感を持っている若者も多い。しかし、今回の統一地方選では、政治や行政の経験だけではなく、どの候補が地域の人たちの事を真剣に考えて現状を打破できるかをよく見極め、自分自身の未来に責任を持って投票に行こう。



張新さん(明治大学2年)の感想:


同じ明治出身の大先輩の渡邉さんと直接お話ができ、大変光栄に思いました。高校生をもっと留学させる話や、東京をひとつのブランドとしてこれから世界に発信するなど、素晴らしい考えだと思います。私もいつか渡邉さんのように、世界を変えていけるような人間になりたいです。渡邉さん、ぜひ今回の選挙で勝ち抜いて、より開放的で元気な東京にしてください。(張さんは、昨年不動産業界での1ヶ月の留学生向け長期インターンシップを終え、今はその修了者と共に、宅地建物取引主任試験の取得を目指し勉強中。)



東京を経営する  
渡邉美樹 著 サンマーク出版

外食事業をはじめ、介護、農業、教育、医療など幅広い分野で活躍してきた「経営のプロ」が、都政について提言した問題作!  経営者としての経験から実感した政治の「壁」をどう崩していけばよいか。 それには何よりも“経営的視点”が必要だと著者は説く。 あらゆるしがらみを排除して、根本から東京を立て直すには、どうすればよいか? 独自の視点からのアイディアを満載した、渾身の「東京改造論」!

 



渡邉美樹氏プロフィール・・1959年10月5日生まれ。明治大学商学部を卒業後、会社経営に必要な財務や経理を習得するため、経理会社に半年間勤務。その後1年間運送会社で働き資本金300万円を貯める。1984年ワタミを創業し、「地球上で一番たくさんのありがとうを集めるグループになろう」という経営理念のもと、外食・介護・ 農業・環境・教育・医療・福祉などの分野で独自の事業モデルを構築してきた。学校法人郁文館夢学園理事長、医療法人岸和田盈進会病院理事長、NPO法人みんなの夢をかなえる会理事長、日本経団連理事、政府教育再生会議委員 (2006年)、神奈川県教育委員会教育委員(2006年~2009年)、日本相撲協会「ガバナンスの整備に関する独立委員会」委員(2010年)、観光 庁アドバイザー(2010年)も務める。同時に公益財団法人School Aid Japan代表理事としてカンボジアでの学校建設に携わる。


渡邉美樹氏 公式サイト
http://www.watanabemiki.net/
http://ameblo.jp/watanabemiki/
 

日本初! 選挙で選ばれ地域委員として活躍した大学生

特集

 

日本初!! 

選挙で選ばれ地域委員として活躍した大学生

新しい住民自治の姿を探るべく誕生したボランテイア参加が
中心の地域委員会とは?

 
   会議で発言する玉置委員        地域委員会会議の様子  


選挙で選ばれ、1500万円の予算の使い道を話し合う名古屋市千種区田代学区地域委員として活躍した2人の大学生、玉置真悟さん(名古屋大学4年)、大原康治朗さん(愛知県立大3年)に名古屋大学でジャーナリズムを学ぶ、ランス・トロングさん(オーストラリア)が話を聞いた。

 

                                           名古屋城

地域委員会とは・・昨年から名古屋市の8つの地域で試験的に始まった、小学校区ごとで選挙により選ばれた地域委員を中心とした住民自治制度。各委員はボランティアであるが、500万~1500万の予算で、住民の代表として、地域課題の解決策の審議を進めるところが、今までに存在している地域の自治会や地域連絡会などと大きく異なる。地方議会の形骸化が叫ばれる中、地域委員会の会合はすべて公開されており、一般市民も自由に参加し、質問も出来る新しい形の住民自治制度の取り組みとして注目されている。

      (左:玉置さん・右:大原さん)

Q:どうして、ボランテイア委員に立候補したのか?

A(玉置)和歌山から名古屋に出て来たが、学生生活であまり地域と関わることなく過ごしていたので、地域委員会の活動は地域社会を知るいい機会だと思った。また1500万にもなる予算の使い道を自分たちで決めていくことにやりがいを感じ立候補した。

 

A(大原)スペイン語を勉強していてガウディの造った建造物の与えた都市への影響に興味があり、『歴史的建造物の保存』という課題が地域委員会にあったのでそれに惹かれて立候補した。

 


Q:地域委員会を経験して感じたことは?

 

A(玉置)副委員長も務めさせてもらったが、周りの人生経験豊富な、シニアの方々や主婦の人などいろいろな人達が、若い委員が少なかったこともあり、自分たちの意見もよく聞いてくれた。学生の新しいアイデアを出したり、フットワーク軽く動けるところは、地域社会に役立てる点であるとわかった。政治に関心を示さず、投票にも行かない若者は多いが、地域社会に関心を持てば、自ずとこれからの社会のあり方にも責任を持つようになると思う。
私の家系は、警察官や公務員が多く、また生徒会活動などをしたこともあり、政治や社会問題に関して割に身近な所にいたと思う。実際1500万円の税金の使い道について自分なりに責任を持って考えることが出来たことは、その責任の重さを痛感出来るいい機会だった。地域の内容であれば、身近な問題が多く、イベントの動員や企画など若い人たちの活躍の場が多い。私が副委員長に選ばれたのも他の委員の方々の若い世代への期待が大きかったからであろう。政治というものは本来、特別な人だけが行うのではなく、若者やサラリーマン、主婦、生活弱者の代表などにも、もっと活躍の場があってもいいはずだ。今回委員を務めて自分たちの世代への期待の大きさをつくづく感じた。また、この地域委員会をもっとうまく機能させるには、市会議員の人たちの協力も必要だと思う。地域住民の声を聞くべく、ボランテイアの地域委員会を受け入れ連携することが出来れば地方自治のあり方ももっと民主的になり、若い人達の政治参加も増えると思う。その期待に答えるべく、これからも政治について、地方自治についてもっと勉強していきたいと思う。

 



A(大原)まず、軽い気持ちで立候補したので当選して正直びっくりした。委員会の会合もいろいろな委員の人たちと話すうちに、大学では知ることの出来ない社会の側面を知ることが出来た。話し合いのやり方に慣れている委員長さんのみんなの意見を聞きながら調整していくやり方は、さすがだと思った。自分の住んでいる地域について高額な予算を持って議論することは、地域の素晴らしさを再認識させてくれた。大学の友達にも地域委員の活動を紹介したところ、関心を示してくれる友人も多かった。私の周りの外国語や国際関連の専攻の学生は、世界で起こっている大きな問題に目が行きがちだが、身近な地域にも関心を持ち、そこでの問題の解決を具体的に真剣に考えることが、世界の問題の解決にもつながるのではないかと思った。




  鎮守の森 自然観察会で活躍する学生ボランテイア

また、大学でガウディの建築がどのように街の形成に影響を及ぼしたかを勉強したが、自分たちの街にある歴史的建造物を知り、誇りに思うことで地域に対する愛着も湧いてくると思った。地域委員会のイベントに大学の友人達がボランテイアで参加してくれてとても嬉しかった。ひとりでも多くの学生が地域に暮らす人たちと関わり、地域社会に関心を持ってくれるといいと思う。将来、留学を計画しているが委員会活動を通じて、地域の結びつきの大切さ、日本の素晴らしさを再発見出来て日本人として自分を語れるようになった気がした。

民主主義の進んでいる国々の地方議員の多くは、本職を持っており、議員活動はボランテイア的な側面が強い。また、日本のような職業議員という人達もあまりいない。名古屋市の地域委員会の試みは、住民自治の姿をもう一段高めて、「地域のことは地域で決める」という主旨から、住民が市政運営にもっと参画することをめざすものである。この度初めて地域委員を経験した2人の大学生は、自分たちが必要とされている確かな手応えを感じたようだ。今年は統一地方選挙の年である。若者も自分たちの未来を他人任せにすることなく、自分で新しい時代を切り開いていこうという気持ちが大切だ。その気持を持ち続けて活動すれば、周りの善良な大人の人たちも応援してくれるであろう。

地域と学生団体の関わりは、どう変わるのか?

二つ以上の祖国を持とう!! アジアエンパワーメント特集

特集

 

 

二つ以上の祖国を持とう!!



多様で多彩なメッセージを発信した、

第1回アジア・エンパワーメント・フォーラム

「フォーラム」と言っても、官製のそれとはちょっと趣きが違う。学者が研究成果を発表する場のような堅い雰囲気もない。東京・港区のホテル・アジア会館で11月7日に開かれた「アジア・エンパワーメント・フォーラム」。運営の主体は学生だ。そこには「アジア」をキーワードに、多文化共生社会があり、医療・住宅、コミュニティー、芸術、起業、ボランティア、国際結婚、「愛」と「感動」など、多様で多彩な「エンパワー」があった。(多文化情報誌イミグランツ編集長・石原進)

知り合いの宮崎計実さんから事前にA4用紙2枚のフォーラムのプログラムをもらった。宮崎さんは「グローバルコミュニティ」という多言語の国際交流新聞を発刊している。フォーラムの企画に携わった一人だ。その宮崎さんから2日前に、手違いがあって会場が本郷の東大工学部から青山のアジア会館に急きょ、変更になったというメールがきた。直前になって会場変更とは……。若干の不安を抱いて会場に足を運んだ。

フォーラムを主催したのは、国際的な活動をする団体や有志による実行委員会。運営は主に東アジア学生フォーラムLEAFの女子大生が担当した。初めてのフォーラムだけに、スムーズな運営とは言えなかったよう。場馴れしていないせいか、司会の語り口もややたどたどしい。机に置かれた資料類の中に、正式なプログラムも入っていなかった。しかし、そうしたことを差し引いても余りある、心に残るメッセージがいくつかあった。



オープニングは武楽(舞楽ではない)、琴演奏、中国朝鮮族の女性歌手の歌。この趣向は、まずは参加者の目と耳を引きつけ、その場の空気を「フォーラム」になじませるのが狙いか。続いて実行委員会を代表してLEAFの和田朋子さんが「アジアの未来に対して何かをしたいという人が集まって、第一回のファーラムを開けることに感謝したい」。と述べた
あと、アジア大使を代表して、ヌール・ムハマド・ジャドマニ・パキスタン大使が初のフォーラム開催を祝福した。



   
フォーラム本番は、セクションAの「多文化共生 健康・住宅」からスタート。セクションは、「G」まであり、タイトなスケジュールの中で分科会のような催しが7つも続いたのだ。「A」ではインドネシアから日本に来ている看護師・介護福祉士候補者を支援する「ガルーダサポーターズ」、外国人・留学生の住宅の世話をしている日本賃貸住宅管理協会、東京都板橋区の高島平団地に留学生を住まわせ、日本人の入居者と交流を深める取り組みをしている大東文化大学の各代表がそれぞれの取り組みをプレゼンテーションした。いずれも、人口減少が続く日本社会にとって、正面から向かい合わねばならない重要な課題だ。
   


「インドコーヒー」を販売している在日インド人(WHCreation社 ピヤラオーク氏)の苦労話も興味深かった。インドカレーなら誰でもしっているが、インドがコーヒーの産地だと知っている日本人はほとんどいないからだ。在日中国人(㈱世代継承活学社 蔡龍日氏)が自国の留学生を日本でサポートする事業もユニークだ。入学から卒業・就職まで支援するという。政府の「留学生30万人計画」の応援団でもある。


会場の女子大生たちの関心を集めたのは「多文化コミュニケーション」に関するセクションで登場した多文化家庭支援センター事務局長のエインズワース千明さん。多文化家庭とは国際結婚の家庭のこと。エインズワースさんは日本人だが、夫は米国人。エインズワースさんは、新宿区では10組に1組が国際結婚だと指摘し、「国際結婚は増えているが、実際の生活では意思疎通が難しく離婚も多い」など苦労話を披露した。



このセクションで会場を沸かせたもう一人のプレゼンターは早稲田大学のカワン・スタント教授。インドネシア出身で工学、医学、薬学、教育学の4つの博士号を持つスーパー教授だが、その真髄は「学生にやる気を起こさせる」ことだ。教え子の女子大生も連れて来て具体的な授業の実践例を紹介し、熱い語りで会場に「やる気」を振りまいた。

     
“スタント効果”が出たためか、その後の議論はボルテージが高まった。特にアジアとの交流を進める東アジア学生フォーラムや筑波大などの学生団体、通訳ガイド、国際医療学生団体などから次々とその取り組みが披露された。それぞれに強い意志を持って積極的に実践しているようで、「最近の若者は元気がない」などと言う大人たちに聞かせてやりたいような内容だった。



津軽三味線の演奏とシンガーソングライターの歌声でフォーラムの幕を閉じたのは予定より約1時間半遅れの午後8時少し前。例えて言うなら、多文化がいっぱい詰まった温かなごった煮のようなイベントだった。


フォーラムの仕掛け人の1人で、日本を元気にしようという人たちが集う山元学校学長の山元雅信さんは「今回は第1回目だが、毎年、できれば4カ月に1回ぐらいフォーラムを開きたい」と言葉を弾ませていた。


二つ以上の祖国を持てるように、
日本に住む色々な国の留学生や外国人の人たちと友達になろう



多文化情報誌『イミグランツ』

グローバルコミュニティーでは、今回、多文化共生に詳しい元毎日新聞論説副委員長の石原進氏にアジア・エンパワーメントフォーラムの総括の記事を書いていただきました。石原氏は、記者当時から日本における外国人問題に深い関心をもち、「多文化共生社会・日本」 の実現をはかるべく多文化情報誌『イミグランツ』を創刊されています。第一線のジャーナリストとして活躍された深い見識と、毎日新聞政治部副部長時代に培った豊富な人脈を活用し、海外有識者ネットワーク日本事務局長を努めながら、『日本社会の内なる国際化』の啓蒙活動を『イミグランツ』を通して地道に続けておられます。
『イミグランツ』は、以下の公式サイトよりお求めいただけます。

http://www.imin.co.jp/immigrants/

大使からのお祝いの言葉

ヌール・ムハマド・ジャドマニ・パキスタン大使


この様な記念すべき会合の1回目にお話しをさせていただき大変光栄に思います。日本の学生さんたちが中心になって運営をしていると聞いていましたが本当に素晴らしいことです。さて、パキスタンには多くの日本企業が進出していますが技術の移転や資金の提供などでもいい関係を維持しています。今後ともどんどんパキスタンや他のアジアの国々にも多くの日本人の人達が関心を持って訪れてくれることを願っております

実業界よりの応援メッセージ

『自分の国に誇りを持とう。』



『0』    から事業を起こし、今では2万室を超える
部屋数を所有するホテルオーナー

アパグループ元谷代表

事業家の先輩として少し話して欲しいと山元学校の山元先生よりお願いがありましたので、来させて頂きました。どんな事業であっても時代を読んで先手を売っていく事が大切だと思います。また『アップタウン』という情報誌を発行してその縁も世界各国を尋ねる機会もありましたが、皆さん自分の国の文化にとても誇りを持っていますね。
日本にも世界に誇れる素晴らしいものがあると思います。もっと日本人は、自国の事を
真剣に学び誇りを持つ必要があるのではないでしょうか。


アジアの環境問題を『創生水』で解決する


創生ワールド株式会社社長補佐・諸山様


世界の子供たちの健康と安全な生活の為に創生水を
提供することを通じて貢献したい。

世界中で多くの子供達が安全な水が飲めないために命を落としています。
私達は、世界中の子供達が安心して飲める水を提供することを使命に
事業をしています。私もよく出張で中国や韓国に行きますが、私達を暖かく迎えてくれる友人が大勢おります。世界の環境の問題にアジアの人たちが一致団結して協力関係を築くことが今後より一層大切になると感じています。



 

努力と感謝の気持ちで自分の道を切り開こう 外国人看護士の挑戦

特集
看護師候補生の挑戦する気持ちと彼らを本当の家族のように支えた人たちの思いが奇跡を生んだ。
 
 
 
 
『あいうえお』からスタートしてわずか2年足らずで日本の看護師国家試験に奇跡的に合格したインドネシア人看護師リア・アグスティナさんとヤレド・フェブリアン・フェルナンデスさん。多くのEPA(経済連携協定)で来日している看護師・介護福祉士候補生のみならず、彼らを日々サポートしている関係者にも大きな勇気を与えた。

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《インドネシアの2人が看護師国家試験に合格!!》

レイクランド大学ジャパンキャンパスに通う中国(モンゴル自治区)の留学生スチントヤさんがお二人にお話をお聞きしました。

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Q1:看護師国家試験に合格本当におめでとうございます。短期間の準備での合格で多くの日本人も驚いていますが、どのように勉強をしたのですか?

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A1:(リアさん)日本に来てまだ2ヶ月の時、病院の人たちが本番の国家試験の問題を見せてくれたんですね。その当時はほとんど読むことすら出来ませんでした。他の多くの候補生はやる気をなくしていましたが、私は同じ人間だから出来ないことはないと思い、一人でも合格してみせると心に誓いました。6ヶ月の日本語の集中トレーニング終了後、午前中は病院で看護アシスタントとして勤務し、午後からは病院の中で先生について勉強をしました。漢字を覚えるには時間がかかりますが、見て、意味を理解することに集中し、書く練習はあまりしませんでした。
私たちをサポートして下さった先生達も本当に親切、丁寧に教えてくれました。日本語も練習問題を解きながら、実践的に勉強していったので、効率もよく、飽きることなく勉強を続けることが出来ました。わからないことはその場ですぐ聞いて、覚えるようにしました。また不得意な科目は先生達がやさしく問題の解説をしてくれました。これもとても助かりましたね。しかし、日本語も覚えながらの授業だったので、先生達は私たちを教えることはとても大変だったと思います。本当に有難うございました。

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(フェルナンデスさん)最初は本当に大変でしたが、リアさんの頑張る姿に励まされました。新潟県三条市の三之町病院に来てからは、午前中は勤務、午後からは院長先生はじめ、多くのスタッフの方々から国家試験の勉強について徹底的に教えてもらいました。とにかくたくさんの問題を解くことを心がけました。勉強の毎日でしたが、多くのスタッフの方々が私たちのために忙しい時間をさいてくれたので、私たちも勉強が仕事だと思い、日々工夫しながら合格するための効率のいい方法を考えました。6ヶ月の集中研修後は、日本語の勉強を別にしている時間はありませんでしたので、病院の先生と相談して、試験問題を解くことに集中し、日本語は問題を解きながら必要に応じて覚えていくことにしました。結果的にはこれがよかったみたいで、5年分の過去問題を解く練習をすることが出来できました。日本語勉強の不足分は、いつも辞書を持ち歩き、わからないことはすぐ辞書を引いて覚えて、その表現を出来るだけ使うようにして補いました。
日本語を話し、日本語で考える環境にいること自体が勉強で、日々上達が実感でき面白かったです。

Q2:サポートしてくれた新潟県三条市の三之町病院はとても家庭的な雰囲気だったようですね。

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《ボーリング大会》  

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《病院の皆さんとバーベキュー》

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《お世話になった担当者の樋口博一さんと》


A2:(フェルナンデスさん)鎌田院長先生の“私はあなた達の日本のお父さんだから遠慮しないで何でもいいなさい。”という言葉でとても安心して新潟の生活をスタートすることが出来ました。病院のスタッフの人たちも同じようにとても暖かく、時には厳しく本当の家族のように接してくれました。皆さんのお陰で安心して生活が出来、勉強に集中することが出来ました。
休みの日には、私たちが寂しくならないように、他のインドネシアの候補生が住む町に連れて行ってくれたり、ボーリングやバーベキューにも誘ってもらって勉強以外にも楽しいことがたくさんありました。剣道やバレーボールのクラブ活動もいいストレス解消になりましたね。国家試験に合格でき、私たちのために一生懸命サポートしてくれた方々に恩返しが出来てとてもうれしかったです。

(リアさん)私たちがテレビで紹介されたこともあり、買い物をしているときに三条市の街の人たちも時々頑張ってねと声をかけてくれました。三条市は雪が多く私たちにはとても寒いところですが、病院の人たちはもちろん、街の人たちもとっても暖かい人が多かったです。街の人たちまで私たちを応援してくれていることを知って、皆さんへの恩返しのためにも絶対合格してみせると心に誓いました。寒さにはまだ慣れませんがこの町で看護師として頑張っていきたいです。

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《三之町病院、ガルーダサポーターズの皆さんと》

Q3:今、国家試験を目指してがんばっているEPA候補生や留学生の皆さんに応援メッセージをお願いします。

A3:(リアさん)私にも出来たんだから皆さんにもきっと出来るはずです。日本に来た時の気持ちを思い出して目標達成まで頑張りましょう。
(フェルナンデスさん)私はリアさんとお互い励ましあって勉強をしてきました。勉強は孤立しがちですが、一緒にいる仲間とお互い励まし合って頑張りましょう。正直合格する自信は全くありませんでしたが、試験当日、次々と予想していた問題が出てきました。神様も助けてくれたと思います。ベストを尽くせば奇跡は起こります。私たちも皆さんを応援していますので、最後まで全力で頑張ってください。

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《合格祝いのお礼をいうフェルナンデスさん》

2008年来日の第一期EPA候補生には、来年2月の看護師国家試験が最後のチャンスになる。漢字も全くわからない人たちに3年以内の合格を求めるのはとても厳しいことだ。しかし、逆にいうと、この状況下においても頑張ることが出来た人たちなら、日本の病院や社会も彼らを無条件に暖かく迎えてくれるに違いない。2人の合格の話は、現場で彼らを支える病院のスタッフ、日本語教師の人たちにも大きな勇気を与えた。本人が感謝の気持ちを持って努力し、それを支える人たちの熱い気持ちがあればこの状況を打破できるかもしれない。いろいろな難関に挑んでいる人たちも、周りの人たちに感謝し、自分を信じてベストを尽くしてほしい。

インタビューした留学生の感想

リアさんとフェルナンデスさんの二人にインタビューして印象的だったのは二人とも相手(院長先生や支えてくれたまわりの人々)への感謝の気持ちを強く持っているところでした。また、試験勉強で、ただがむしゃらに頑張るのではなく、勉強のコツもきちんと考えて進めていたところが成功の秘訣だと思いました。リアさんの「他の人にできることなら、自分にもできる。他の人ができてないなら、自分がやってみせる」という強い心が今回の成功に繋がり、フェルナンデスさんの「不可能なことはない、何もやらないより、何かをやっていたほうがいいです。」という考えが奇跡を起こしたと思います。本当に二人から大きな勇気をもらいました。他の留学生達にとっても大きな励みになると思います。


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スチントヤさん
(レイクランド大学ジャパンキャンパス英語課程) 
 
日本の医療の未来のために私たちはあきらめない!!

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《会場全員参加の大討論会》

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《期待を受けて始まったEPA制度による受け入れであったが、、》

EPA(経済連携協定)を通じてインドネシアやフィリピンの看護師・介護福祉士候補の応募者、受入れ機関数とも年々減少している。受入れ機関では、経済的・人的負担の大きさ、候補者には日本語、国家試験のハードルの高さが問題になっている。その現状をふまえて、双方の意見も聞きながら、現実的な問題と対処している専門家のボランテイア集団がガルーダサポーターズだ。
ガルーダサポーターズでは今年1月すでに、厚生労働省にスキームの見直しの政策提言を出し一定の評価は受けたが、まだまだ本格的な改善にはいたっていない。それを受けて、7月3日、東京広尾のJICA地球広場にてガルーダサポーターズ主催の『EPA受け入れスキームのゆくえ』と題し、看護・介護の専門家、大学教授、多文化政策の専門家、ベテラン日本語教師・NPO代表など100名以上の関係者が集まり、この大きな問題の抜本的な解決策を探るべく、熱のこもったオープンディスカッションが行われた。

海外の労働問題に詳しい安里准教授(京都大)によると、看護・介護の人材はどの先進国も海外からのスタッフに頼っているのが現状だ。欧米はもちろん、アジアの国々でも外国籍のスタッフの活躍が目立つ。シンガポール99%・台湾、香港でも40%以上のスタッフが外国籍だ。すでに国際的には看護・介護人材の獲得競争も激しくなっている。
今は、EPAの是非を話し合っている場合ではなく、どうすれば、外国人看護師・介護福祉士を安心して無理なく受入れられるかを考えていこう。そして、関係者が一丸となって全力をつくし行政に訴え続けていこうと激論は締めくくられた。現状の日本人看護師・介護福祉士の待遇の問題も含め、このような建設的な討論がいろいろなレベルで行われれば、この大きな問題もいずれは解決されると確信している。


ガルーダサポーターズ

日本・インドネシア経済連携協定(EPA)に基づく看護師及び介護福祉士候補者の受入システムの改善を求めるべく結成されたいろいろな分野から集まった専門家・実務家ボランテイア集団。2010年1月に提出された政策提言は関係省庁からも評価されマスコミでも取り上げられ大きな反響を呼んだ。

共同代表・事務局長 宮崎和加子氏
〒120-0022
東京都足立区柳原1-9-13 TEL:03-5284-3706 FAX:03-5284-3707

e-mail info@garuda-net.jp
ホームページ http://garuda-net.jp
(*ガルーダサポーターズの政策提言はホームページよりご覧頂けます。)
 

私はあなたをあきらめない

特集
自分自身の可能性に目覚めさせる『スタント・メソッド』で世界の若者を救う
 

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              マハテール元マレーシア首相とも一緒に講演


現地のマスコミでも大きな反響が。。 母国インドネシア・シンガポール・マレーシア、中国の政府や関係機関からも熱烈なラブコールを受け、それぞれの国で講演。スタント教授の教育にかける熱い思いは各国の悩める若者たちを奮い立たせた。その様子は、現地のマスメディアでも大きく取り上げられている。久しぶりに日本に帰ってこられたスタント教授に3人の学生がお話を聞いた。

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(菅野勝男氏撮影)


Q:先生の子供の頃の様子や日本に来られた経緯をお聞かせください。

A:私は幼いころ両親を亡くし、とても厳しい継母に育てられました。病弱で邪魔者扱いされ家ではいい思い出はありませんでした。家にいるのがいやだったので、朝早く登校し学校の掃除をするようにしました。そのおかげで先生やみんなにも認められるようになったので、もっと認められたいと思い、熱心に勉強しクラスメイトや近所の子供たちにも勉強を教えはじめました。しかし、高校1年になったばかりの1965年、9.30事件反共産党クーデターで、新政府が全国の中国系インドネシア人の学校を閉鎖し、私たちは教育が受けられなくなりました。仕方なく兄の電子機器の販売事業を手伝いながら、自分も修理事業を立ち上げました。そしてその事業が大成功し、兄が裕福な生活を送れるようになったので、経済的な理由から高校や大学に行けなかった私は、もっと勉強したいという気持ちを抑えきれなりました。

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エンジニア志望だった私は精巧な電子製品を作る日本に自然と惹かれ、そして、23歳で来日し、26歳の時に一般の年齢より8年遅れではありますが、ついに日本の大学に入学することが出来ました。東京農工大学で、電子工学を専攻し、東京工業大学で博士課程も修了しました。しかし、34歳を過ぎていた私には、日本での就職先はありませんでした。日本で就職する夢を諦められなくて、自分の条件をよりよくするために、もう1つの博士号を必死に挑戦して取得しました。そこで、工学・医学と2つの博士号をとりましたが、それでも日本では認めてられませんでした。日本で14年間がむしゃらに生きてきたのにまさかだめだとは。。。途方にくれていましたが、人生を再出発しようと決心し、日本がだめなら今度はアメリカしかないなあと思い、3人の幼い子供を残し、38歳で全く未知の最もレベルが高いといわれる米国の科学界に挑戦することにしました。「当たって砕けろ」の精神で、もう一度自分の人生を賭けてみることにしました。そして、幸いにも、実力を認めてくれるアメリカの大学が見つかり、念願の教職の仕事を得ることが出来ました。5年ほどアメリカで教鞭をとりましたが、東工大の恩師奥島教授の誘いがあり日本に戻って来ました。


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Q:どうしてアメリカから日本に戻ってきたのですか?そして、大学の教育改革に取り組むようになったのはなぜですか?

A:私は日本で鍛えてられて、結果的に4つの博士号を取らせてもらいました。厳しい日本社会で鍛えられたお陰で今の私はあります。素直にその日本に恩返しをしたいと思いました。
しかし、赴任した大学で8割以上の学生が授業を理解していなくてもそのままにされていることに気づき、私の授業を受けている全員のやる気を燃え上がらせて見せようと決心しました。
母国や米国での実体験や日本の社会で否定されても何度も挑戦し続けた自分の体験を語り、彼らを励まし続けました。反面、授業にはとても厳しい姿勢で臨みました。授業はほとんど英語で行い、また英語でのプレゼンも学生に要求しました。はじめは学生たちもパニックを起こしましたが、こちらの真剣な気持ちが伝わると、学生たちも少しずつ努力するようになりました。どんな若者も本人も信じられないほどのすばらしい可能性(=潜在能力)を秘めています。それを引き出してあげるのは、教育者の本気の姿勢です。大学では、やる気のある学生だけを相手にすればいいという考えがありますが、私は、誰一人として彼らを見捨てません。また他の先生にも生徒を見捨てないでほしいと思っています。



中国の大学の創立100年での記念講演
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Q:子供のころ、愛情に恵まれなかったのに、先生のその限りない生徒への愛情はどこから沸いて来るんですか?

A:私の子供時代はあまりに悲惨すぎて、他人に愛情を求めることが出来ませんでした。ただ、自然の中で遊び、生きていることに感謝するしか自分の存在意義を見出せなかったのです。しかし、子供たちに勉強を教えるうちに人に感謝される喜びを感じるようになりました。愛情は『人に先に与える』ことによって『与えられる』のです。厳しい家庭環境のお陰でそのことに気がつくことが出来ました。そしてその『先に与える愛情』には限りがありません。なぜなら、いつか必ずその気持ちが相手に伝わることを何度も経験して知っているからです。教師として教えた学生が成長していく姿を見ることほど幸せなことはありません。
私は、一人ひとりの学生がそれぞれの物語の主人公だと思っています。自分を好きになって自分らしい人生を送ってほしい。そのためには中途半端はだめです。多くの学生が涙を流すほど私の授業は厳しいので有名ですが、私は一人ひとりの学生に自分の夢を絶対にあきらめさせません。彼らの夢は私の夢でもありますから。
一見やる気のない学生ですら、本来はすばらしい可能性(=潜在能力)を秘めています。私たち教育者には、彼らの隠れた本心と真剣に向かい合って、命がけで授業に取り組む姿勢が必要です。そうすれば必ず彼らは、本当の自分を取り戻し、自分自身の夢と向かい合い、自分の物語を作っていくようになります。人に作られたのではないオリジナルの人生を生きるようになります。そしてそれは大きな自信につながり、自分をどんどん好きになり、やがて人にも優しくなります。 
 

カワン・スタント氏 早稲田大学臨床教育科学研究所所長

 

 
カワン・スタント氏:早稲田大学国際教養学術院教授早稲田大学臨床教育科学研究所所長1951年インドネシア・スラバヤ生まれ、74年に来日し、エレクトロニクス技術を学ぶ。77年に東京農工大学の電子工学科へ入学。卒業後、東京工業大学、東北大学など4つの大学で「工学」「医学」「薬学」「教育学」の博士号を取得。88年、米デュレクセル大学工学部準教授、90年、トーマス・ジェファーソン医科大学医学部準教授を兼務、93年に再来日。桐蔭横浜大学工学部教授に就任し、「学生のやる気を引き出す」教育法を確立。2003年より現職。経済産業省産業構造審議会21世紀経済産業政策検討小委員会委員を歴任、米国超音波医学会、米国音響学会、日本音響学会、日本超音波医学会などでも受賞歴あり。著書 『「できない大学生」たちが、なぜ、就職で引っ張りだこになったか』(三笠書房)が、大きな話題に。
 

海の再生に人生を賭ける

特集
 

海の破壊者から
海の救世主になったプロダイバー
 
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プロダイバーの渋谷正信さんに
グローバルコミュニティーインターン生の
ランス・トロング君がお話を聞きました
 
 
 
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渋谷正信氏プロフィール:「渋谷にできない仕事はあきらめろ」といわれるほどの潜水工事の第一人者。本四架橋、羽田空港、東京湾アクアラインなどの多くの水中工事でも活躍。最近は、長年の調査に基づいた海の再生プロジェクトで、日本国内はもとより世界でも注目を浴びている。TBS系列 情熱大陸、夢の扉に出演.また忙しい仕事の合間を縫って、教育機関での講演で海を守る大切さを伝えている。


Q:海を守る活動をするようになった経緯を教えてください。

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25歳よりプロダイバーとして働き始めたが、私は、『誰よりも長く、誰よりも深く潜る』が信条で、潜水技術と体力には、誰にも負けない自身があった。そして、32歳で潜水工事会社を設立。しかし、最初の大きな潜水工事の仕事で潜水病を発症。3ヶ月の入院生活の中で人間は弱いものだと初めて気がついた。だが、その先にもまだ人生の試練が待っていた。私が人の気持ちをあまり考えず、社員にあまりに厳しいことを要求していたために、社員全員が一度に辞めてしまったのだ。
とても情けない気持ちになり、それ以降、精神的な世界の本を読んだり、ヨガなども始めた。そこで学んだ思いやりの気持ちで日々、自然や妻と接しているうちに『静かなものの中にある強さ』『女性の強さ』を深く感じるようになった。なにも言わず支えてくれる妻にも感謝するようになり、海に潜っても忘れかけていた自然の美しさを再発見するようになった。『こんな美しい海を私は水中工事で破壊し続けていたんだ。』それまで行った過去の工事を振り返り、日々後悔の念を感じ、仕事を辞めたいと考えるようになった。

『海を守ろう!!目覚めるきっかけになったアクアラインの工事』



迷いを払拭できない状態の中で、東京湾アクアラインの仕事が始まった。最初の作業として、「風の塔」と呼ばれる換気装置を据え付けた。しばらくして、その構造物に潜水し、調査してみると、黒鯛が住みついていたのを発見した。その瞬間に今まで携わった工事後の海で魚が戻ってきていた状況が次から次と目に浮かんできた。そして気がついた。

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『水中工事のすべてが悪い訳ではない。やり方次第で魚たちが住みやすい環境を作ることができるはずだ。』 それ以降「環境と開発の両立」や「潜水を通しての心の教育」に人生を捧げる決心をした。生物については、元々専門家ではなかったため、自分で海草や魚などについて一から勉強を始めた。そして、過去に携わった現場に戻り、写真やビデオで工事の後の海を徹底的に撮影して研究した。そして、私たちが提唱する海の環境にやさしい水中工事のスタイルが、少しづつ注目されるようになり、最近はテレビなどのマスコミでも取り上げられるようにもなった。ついに自分の見てきた水中の世界の現実に光が当たりはじめのた。長年地道に活動してきて本当に嬉しかった瞬間だ。
日本の海は、今危機的状況にある。魚や貝の栄養になる海草が急激に減少しているからだ。その現状をまず出来るだけ大勢の人たちに知ってほしい。ちゃんと手当てをすれば、まだ、いろいろなところで海の再生が十分に可能だ。

Q:留学生や若い読者の人たちにメッセージをお願いします。

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私は海のテロリストだった。しかし、今は海を守ることに全精力を捧げている。今はあなた自身も環境を破壊しているかもしれない。しかし、今からでも遅くはない。どんな人にも素晴らしい聖なる心があると思う。嫌なことがあってもそれを乗り越える力だとか、人に親切にするとか、そういう心をみんな持っている。これから先、何度も失敗もすると思うし、嫌なこともあると思うけど、時には自然の美しさに触れ、できるだけ多くの人に優しい言葉を掛けて、前向きに毎日を送ってほしい。

湾岸戦争で海が重油で汚れているのを見ていたたまれず、海をきれいにしようと現地でボランテイアをした経験を持つ渋谷さん。自分が大切だと思ったことは躊躇なく実行に移す実行力。60歳になった今でも、先頭に立って自分自身も海に入っていく渋谷さんの姿勢から学ぶことは多いと思う。今私たちに望まれているのは議論でなく行動だ。

 
 
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 インタビューした学生の感想文 ランス トロング さん  オーストラリア モナッシュ大学  日本語・ジャーナリズム専攻

日本だけでなく、世界中で尊敬を受けているプロダイバーに話を聞かせていただいたのは、貴重でユニークな体験でした。若者の一人として、多種多様な経験を持っている人と会うことは勉強になり、自分のこれからの人生を考えさせられました。また、渋谷さんの環境再生の活動やそれまでの経緯を聞いた時、「単にプロダイバーの第一人者というだけでなく、社会貢献活動の第一人者でもあるんだ。」と、更に渋谷さんへの尊敬の念が深くなっていきました。現在の様々な環境問題を抱えている地球にとって、こういう人こそ救世主ではないかと思います。
 

いい体験が人や組織を変えていく

特集
キーワードは『母性』。お互いが『与え合う感覚』を何より大切に。
普通の主婦から映画プロデユーサーへ転進。初めて作った映画が日経地域情報化大賞・「日経MJ賞」を受賞。映画製作を通して人の心に火を付け、地域を再生していく越後啓子さんにお話を伺いました。
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映画のプロデューサーになるまでの経緯を教えてください

主人の仕事の関係で東京から福島県白河市に移住したとき、慣れない土地で子供がまだ小さかった専業主婦の私は、まず、子供の学校のPTA活動に参加し、町内でのコミュニケーションに努めました。次第に多くの友人知人ができ、東京での人脈を活かし、講演会やイベントを主催するようになりました。しかし、私も含めて周りは今までイベントなど主催したことのない主婦達ばかり。様々なトラブルもありましたが、素人のみんなが気持ちをひとつにして地域の人たちの応援を得ながら、何とかイベントを成功させることができました。今までそのような活動に縁のない主婦の方々が涙を流して喜ぶ姿を見て、人が持っている現場力や普段は気がつかない人の魅力を実感することが出来ました。本当にいい経験でしたね。その後、熱心な若い製作スタッフ達との出会いがあり、地域の活性化にも繋がると思い、白河市でのロケ支援を提案。制作スタッフ達の熱意も伝わり、前代未聞の地域住民とプロのスタッフとで創る、映画製作のプロジェクトがスタートしました。それを契機に映画会社を設立し、プロデューサーとして本格的に映画に関わるようになりました。

映画作りで学んだことは何でしょうか

映画を通して、製作に関わる人達全員が、自然にテーマを共有し、映像に撮られることで町が変化していく姿に感銘を受けました。今までは、どうしても変わらなかったことが映画の撮影を通じて変わっていったのです。大事なことは、技術、手法、お金だけでなく、製作に関わる人たち、一人一人のモチベーションをどれだけ上げられるかということだと実感しました。

越後さんにとって教育とは何でしょう

教育とは「いい経験」を積み重ねることだと思います。たとえば、町おこしの映画の製作でも最初は大変ですが、製作に関わる人たちが映画を作るという目的に結集すれば、町の組織自体さえ変わっていくこともあります。限られた時間の中での撮影でも変更や新しい提案が次々出てくるので、組織のルールでいちいち許可を取ったりしていては時間が間に合いません。そこで、トップの方と相談して、トップダウンで直接指示を出してもらう体勢を作りました。ある自治体では、映画の撮影がキッカケになり、その後もトップ直結のプロジェクトが増えたようです。「いい経験」をすれば人は自然と学びます。既成概念にとらわれず、とにかくやってみることですね。

教育に関して、私の心のあり方の原点は母性ですが、女性の持つ子供を生み育てていく感覚が、映画作りや組織の活性化にも大切だと思います。子育ても映画のプロデュースも予定通り行かないのが当たり前ですが、自分を犠牲にしてでも、家族のために、あるいは映画のために臨機応変に対応していく柔軟性が母性にはあると思います。男性的な社会はある意味、奪い合う社会かもしれません。しかし、母性の強い女性的な社会は与え合う社会といえるでしょう。日本のいろいろな意思決定の場所で大切なものを守るために、今後女性の与え合う感覚が必要とされてくると思います。



今後、日本に多くの留学生が増えていくことが予想されますが日本はどのように変わっていくと考えていますか

これからますます民族の移動が活発になり、特にアジアの人々との関わりが大切になってくと思います。その中で留学生達の独自の役割を作ってあげないといけないと思います。例えば、通訳でも単なる機械的なものではなく文化を超えたコミュニケーションという重要な役割を担っているのです。そのように別の視点からみて役割を与えること、工夫することが大切だと思います。

今後はどのような活動を行っていく予定ですか

今は、人それぞれが持っているキャリアに注目して活動しています。社会で長く働いた人は勿論、若い人でもそれまで生きてきたキャリアがあります。経験や年齢、性別のみで人を判断せず、ひとりひとりが持っている感性を大切に育てていける組織を作っていきたいですね。
そこでもキーワードは『母性』です。お互いが『与え合う感覚』を何より大切にしていきたいです。

地域活性・教育改革の仕掛け人

越後啓子氏 プロフィールこれまでの概念を覆す映画制作法を次々と展開。期間限定型のパートナーシップマネジメントで、地域を巻き込む手法は、ビジネス・地域活性の分野でも注目され全国からの講演依頼も多い。映像の魅力を通じて、子供達の教育環境改善を図りたいという強い願いを持つ。 洞爺湖サミット公式記念上映作品/環境映画「KIZUKI」・文部科学省2008年第20回生涯学習フェスティバル・「まなびピアふくしま」記念事業作品/映画「春色のスープ」などのプロデュースに参加。 多くの地域の特性を生かした教育改革のプログラムで活躍。今もっとも注目されている地域活性・教育改革の仕掛け人のひとりである。
インタビューした学生の感想

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三浦宏起さん 慶応大学4年 

インタビューの際、越後さんは今まで多くの自治体や地域の悩みが、映画作りを通して、解決していったとおっしゃっていました。映画作りには、人や地域を変えていく「きっかけ」になる様々な要素があるようです。「良い経験」は、悩んでいたこと、改めて実感すること、今まで意識しなかったことなどを気づかせてくれます。そして、気づきこそが新たな創意工夫を生む第一歩であると思うのです。私もこの取材活動を通じ新たな気づきを得て、皆様に提供していけるよう頑張りたいと思いました。